イエス・キリストの受難と復活を覚える四旬節(レント)の第二主日を迎えています。この季節にどのようなメッセージを語ったら良いか思案しましたが、前田麗奈さんからのラインのメールに触発されて聖書箇所を選びました。前田麗奈さんは私たちの教会から昨年送り出され、ICU(国際基督教大学)で学んでいます。東京に出た頃は環境に馴染めず、苦労したようですが、今はしっかり勉強し、キャンパス内の学生寮で健やかに生活しているようです。2月16日(水)彼女からラインのメールが来ました。引用します。「エッケホモの箇所がどうしてもしっくり来ず、…松見先生の解説をお聞きしたいです。どうぞよろしくお願いします。」というものでした。さすが、ICU、どうしてこんなことを考えているのかまず驚きました。あるいは、学校の宿題の手助けを求めているのかなとも思いましたが、よくメールを読むと彼女は、美術に興味を持って、聖書を読んでいるとのことでした!この週はかなり体調も悪く、精神的にも参っていたのですが、40分から60分かけて何とか指の痛みを堪えて、パソコンで私の考えを書いて送りました。「エッケ ホモ」とはヨハネ19:5においてピラトが語った言葉のラテン語です。今朝はこの言葉「エッケ ホモ」に焦点を当てて聖書を読んでみましょう。
1.エッケ ホモ「この人を見よ!」
この個所はむろんラテン語ではなく、ギリシヤ語で書かれていますが、新共同訳では、「見よ、この男だ」と翻訳されています。口語訳では「見よ、この人だ」と翻訳されていますね。「ホモ」とは「人間」という意味で「ホモサピエンス」とは「知恵のある人」という意味です。現代人に繋がる人類のことです。今日のメッセージの後の応答賛美で歌う205番の4節には、「この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる。この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ」と歌われています。「エッケ ホモ」、「見よ、この人だ」、「この人を見よ」。ある外国人が日本人の作詞したこの讃美歌を知って「これは、世界でも稀にみる優れた賛美歌である」と言ったそうです。この言葉の文脈と意味については後で触れることにして、少し意図的に横道にそれて作詞者である由木康先生について触れておきましょう。私は彼の書いた優れた本『礼拝学概論』を西南学院大学の古澤嘉生先生のクラスで読みました。また、名古屋の瑞穂教会では2泊3日の修養会で、教会員と共に学んだ4冊の礼拝に関する文献でした。今は性差別にも繋がる表現することに躊躇しますが、壮年会がこの由木康先生の『礼拝学概論』を読んで発題しました。由木先生は日本基督教団東中野教会の牧師をされていましたが、私はその教会の信徒数名とごく親しかったので、由木康先生にお会いにいったこともありました。とても背の低い方でした。彼はまた有名なブレーズ・パスカル(1623-62)の「パンセ」(瞑想録)の翻訳者としても有名な方です。フランス文学者でもあったわけです。私は津田穰訳、新潮文庫で「パンセ」を読んでいますが、まだ読んでことのない方は、是非由木康先生の翻訳で読んでみて下さい。パスカルは天才でありまして、激しい頭痛持ちであり、39歳の若さで死にました。彼が頭痛を紛らわすために考えたのが「パスカルの原理」でした。また、12歳にして、独力でユークリッド幾何学の定理32までを考え出したと言われています。彼はある時、キリスト教信仰に劇的回心を経験し、「哲学者の神ではなく、聖書の神」という言葉を残しています。そしてパリ郊外のヤンセン主義のポール・ロワイヤル修道院の客員会員となりました。今日は「主の晩餐式」がありますので、パスカルについてはこのくらいにして、パスカルの「パンセ」を翻訳した由木康先生の作詞205番に、「エッケ ホモ」=この人を見よという言葉が登場することだけを押さえておきましょう。
2.ユダヤ教の大祭司の館からローマ帝国総督ピラトの前に引き出されたイエス
この言葉が登場する場面は、逮捕されたイエス様が、ユダヤ教の大祭司の館からローマ帝国総督ピラトの前に引き出された場面です。禅問答のように、イエス様とピラトとの対話にならない対話を描いた箇所です。キリスト・イエスは、両手を縛られ、茨の冠をかぶせられ、紫の服を纏わされて黙って立っておられます。偽証と分かるような訴えを浴びせられながらイエスは何も喋りません。いったいこの男は何者なのだろうとピラトの方が不安になります。ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」(18:33)、「それでは、やはり王なのか」(37節)とイエスに聞くのですが、「それはあなたが言っていることです」とイエス様は答えるだけでした。そして「真理とは何か?」とピラトは聞きます。真理そのものであるイエス・キリストを目の前にして「真理とは何か」という抽象的な答えはありません。イエス様は悠然とされています。真理・真実とはイエス様のことです。
3.イエス・キリストには何の罪もない!
ピラトの判断は明らかでした。38節には「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」19:4にも「わたしは彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」と言われており、更に、三度目に、6節で、「わたしはこの男に罪を見いだせない」と語ります。ここで「罪」とは「アイテア」という言葉で、告訴する理由という意味です。少なくともローマ帝国の法によって有罪判決を出すことが出来ない、その理由を発見できないということでした。そうですから、岩波訳では、「なんの罪状も見出さない」と翻訳されています。ユダヤ人当局者の思惑はどうであれ、イエスを死刑にするために告発する罪状は存在せず、ピラトは、「イエスを釈放しようと努めた」(12節)のでした。
4.恩赦の可能性 バラバかイエスか?!
そこで、ピラトが思い起こしたのは年に一度の過ぎ越しの祭りの「恩赦」でした。今でもどのかの国の王子の誕生や大統領の就任の際などに「恩赦」、つまり、通常の法を超えた特別の赦免がなされるのです。そこで、ピラトはどちらの人を釈放しようか、強盗のバラバか? あるいは、イエスか? とユダヤ人に問うのです。ローマ帝国が属州ユダヤに与えたお情けです。ピラトは当然、ユダヤ人は、告発理由のないイエスに恩赦をと言うに違いないと思ったのですが、ユダヤ人たちは何と「バラバを」と叫ぶではありませんか!追い込まれたピラトは、「エッケ ホモ」、「見よ、この人を」、この人こそ赦し、釈放すべき人ではないのか!と叫ぶのでした。キリスト教では、すべての人の身代わりになってイエスは死なれたと言いますが、ヨハネ福音書によれば、歴史的には強盗バラバの身代わりにイエスは処刑されたわけです。そうであれば、私たち、神の栄光と正義と愛を略奪し、隣人の存在を傷つけ、隣人の富をむさぼり取る私バラバ、皆さん、あなたバラバの身代わりになってイエス様は十字架につけられ、殺されたのです。こうして何の罪状を認められないイエスがバラバに替わって殺されたのであり、バラバが釈放されたのです。「それからのバラバ」という物語がありますが、釈放されたバラバがどのような生き方をしたのかは興味がわきますね。「それからのバラバ」という物語を描くのは実は私たち、皆さん、お一人お一人ではないでしょうか!
5.人となられた活ける神
今日、いろいろな場所で権力者たちが跋扈し、理不尽な争い、また戦争が発生しています。ウクライナは皆さんにとっては遠い国なのかも知れません。チェルノブイリ原発事故であるいは記憶されているかも知れません。私は何年も前にチェコのプラハに国外研修で半年滞在したことがあります。私が卒業したスイスのチューリッヒ郊外にあった神学院はその後、物価高でもあり、欧州の中央部から距離ができ、また米国南部バプテストの目からは余り伝道的ではないと言うことで、チェコのプラハに移動しました。そこに滞在中、ベラーシの人、ウクライナの人、特に、若い女性神学生たちに出会いました。このプラハの神学校もまた財政的に困難となり、ベラルーシあるいはウクライナに移動するということが取り沙汰されていました。世界地図でスイスから東に目を向けると、オーストリア、チェコとハンガリー、そして、ベラルーシとウクライナに到達します。欧米のバプテスト教会はこうして旧社会主義圏に進出してキリスト教の指導者たちを養成するという計画です。ロシアもモスクワの人口は共産党員よりもキリスト教のロシア正教とバプテストの信徒の方が多いと言われてはきましたが、プーチンから見れば欧米キリスト教勢力のイワジワ迫って来る圧力を感じているのかも知れません。むろん、私はそして、皆さんは、プーチンの悪を許すことはできません。また、今日、不条理だけではなく、余りに理不尽な出来事が多く、また、老化や病気、社会格差などに直面して、いったい神はどこに存在するのかと問いたくなります。この問いに対して、「エッケ ホモ」、「この人を見よ」という言葉は、罪状などなく、苦しみを無残にも引き受け給うイエス・キリストにおいて人間になられた活ける神がおられるという一つの答えを与えています。ピラトはむろん、そんなことを考えていたわけではないでしょう。しかし、この「エッケ ホモ」というピラトの言葉は、十字架につけられ、殺されるまでに人間の苦しみ、孤独を味わい尽くされたイエス様にこそ活ける神ご自身が現れたということを告白してしまっているというのです。私たちは今日、安里道直神学生を沖縄に送り出します。歓送食事会ができないので、主の晩餐式という食事会で彼を送り出しましょう。琉球弧に展開する日米の軍事基地化に抗議しつつ、また、11年前の3・11の大地震と津波による原子炉崩壊と核の汚染、見えない放射能の脅威、どこかあのチェルノブイリ原発事故と繋がる重たい問題を覚えながら今年の受難節を過ごしましょう。しかも、希望をもって!「この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる。この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ」。(松見俊)