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2022.3.20 「礼拝することから始める」(全文)  創世記2:1ー4a

1:  時間の使い方

 今日の箇所は、天地創造の最後の日、七日目の話です。神様は、創造の仕事を完成され、七日目に安息されました。そして、神様はこの日を祝福し聖別されたのです。ここから神様は私たちに安息する日を与えてくださいました。私たちは様々な形で休息をとります。それはただゆっくりするだけではないでしょう。旅行や食事、音楽やショッピング、様々な方法で、体の癒しだけではなく、心の癒しを得るのです。そのなかで本当の休息を得る、魂の休息のために、礼拝があるのです。私たちの心からの休息。それは、神様を礼拝し、賛美し、祈り、そして神様の御言葉を頂くことなのです。神様が私たちの存在を「良し」としてくださった。「あなたはわたしにとって大切な存在だ」と教えてくださっている。そのことを受け取る、神様の愛を確認する、礼拝こそが、本当の休息の時となるのです。今日は、この箇所から時間について考えていきたいと思います。

 今日は3月第3週の礼拝となりますが、おととし、2020年の3月頃は、新型コロナウイルスの感染が拡がり、実際の生活に変化、影響が出てきた時期でした。あれから2年が経ったのです。 私たちの社会は、新型コロナウイルスの感染が拡大する中、生き方自体が変わりつつあります。その中の一つとして、大きく変わったのは外に行く時間が少なくなり、家で過ごすことが多くなったということがあるでしょう。仕事も学校もオンラインで行うようになり、なかなか家から出ない生活が続いているのです。ただ、その中でもあまり増えなかったとされるのが、家族との会話の時間とされています。家には長い時間いるようにはなった、しかし、だからといって家族との会話の時間が増えるのではなく、むしろ一緒にいる時間が増えることでストレスとなり、喧嘩やもめごとが増えたとも言われています。 

 これは新型コロナウイルスの感染が拡大する前の話ですが・・・ある新聞記者がお好み屋さんで経験した出来事なのですが、その人が、マスコミで話題になったお好み屋さんに食事に出かけて行ったところ、そのお店に、30代くらいの母親と小学校5年か6年くらいの女の子がいたそうです。ところがその母親も娘も注文したお好み焼きが来るまでずっとスマートフォンをいじっていたそうです。そして、お好み焼きが運ばれてきても、母親も娘もお好み焼きを食べながら、スマートフォンを見ていたそうでした。そして、結局、この親子はお店を出るまで一言も会話をすることがなかったそうです。

 

 わたしたちには、神様から生きる時間を与えられています。時間は神様からの恵みの一つなのです。私たちはこの時間をどのように使っているでしょうか。遊ぶ時間、ご飯を食べる時間、勉強する時間に仕事をする時間、または休む時間、そして他者と関わる時間など、私たちは神様からいただいた時間を、様々なことに使っているでしょう。今日の箇所にある安息の時は、神様に自分の時間を献げる礼拝の時ともいうことができるでしょう。それは神様の前に留まる時、人生を一度立ち止まる時ともなります。神様はこの時間を与えられたのです。しかしまた、現在の世の中は、私たちに立ち止まることを許さないのです。少し前の話になりますが、「私の暮らしを変えたもの」としてアンケートがあったのですが、その結果は、第3位にインターネット、第2位が携帯、第1位にコンビニという結果だったそうです。このアンケートから数年たっていますので、今はまた違うかもしれませんが・・・この結果で共通するのは、「早くて便利」ということができると思うのです。つまり時間を手に入れるためのものなのです。今では、スマートフォンやAIロボットなどもっと「早くて便利」なものが増えていますので、そのようなものが入ってくるかもしれません。今のこの時代、この社会はそれほど時間を必要とし、その時間でまた何かを得ようとするのです。安息の時、神様のために時間を献げること、神様の前で一度立ち止まるということなど考えられないような社会となっているのです。

 

2:  切り詰められた時間

 以前、わたしの友人の牧師が「わたしたちは、卵を産まされている鶏のようだ」と言わっていました。本来、卵は、太陽が東から昇って、西に沈むという自然の時間の中で産むものです。しかし、現代の鶏は、効率性や生産性を重視する社会において、その時間を待つのではなく、電気で人口的に昼と夜を作り出し「早く産め」とせかされている。しかもわずか1畳ほどの広さに20羽ぐらい詰め込まれて、それが何段にも積み重ねられている。こうやって生き物の時間と空間を切り詰めた結果、鶏は、不安定になり、混乱し、最終的に暴力化するということでした。実際に鶏は突っつき合い、共食い現象が起こることもあるそうです。このような問題を解決するためにどうすればいいのか。その答えは簡単です。切り詰めた時間を返して、切り詰めた空間を取り戻す。そうすればもとに戻るのです。しかし、加速するこの人間社会においては、時間や空間を元に戻すのではなく、突っつき合う鶏がいるなら、そのくちばしを縛ってしまう。これが経済を優先した生き方。これと同じことが人間社会にも起こっているのです。 

私たち自身も、切り詰められた時間の中、切り詰められた空間に生かされているのではないでしょうか。その中ではどんどんとストレスをためることになり、そこから他者を傷つけ、傷つけられていくこととなっている。どこまでも広く広がる大空と大地の中で、ゆったりとした時間を過ごしていたら感じることのないようなストレスを感じるようになってしまう。それが現在の私たちなのです。現在の私たちは、小さな部屋に押し込められ、電気の光で何倍もの速さで昼と夜を迎え、「早く産め」とせかされている鶏のようになっている。このような生き方になってしまっているのではないでしょうか。確かに、今、私自身、自分の生活を見直してみると、いつも急いで生きている。いつも何かに追いかけられて生きているように感じるのです。皆さんはいかがでしょうか。皆さんは時間をどのように感じて生きているでしょうか。

 

3:  人間の時間枠から、神様の時間枠へ

2:1 天地万物は完成された。2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。 2:3 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。 2:4 これが天地創造の由来である。】(創世記2:1-4a

 今日の聖書は、そのような私たちに、神様が創造の仕事を離れ、安息されたことを教えます。神様の安息。これはただ休むということではなく、神様に目を向けること、神様のことを想うこと。つまり、礼拝する時間を意味しているのです。そしてこれは先ほどの話から読み取るならば、人間が作り出している社会、ただ生産性のみを考え、「より早く、より効率的に」という時間枠から、世界の創造主である神様が造られた時間に立ち返ることを意味しているのです。

 神様は世界を創造されました。そして時間を創造されたのです。その創造の一つとして、安息されたのです。聖書は、人間が自分中心に生きる時間から、一度離れて、神様を想うこと、神様の時間に戻ることの必要性を教えてくださっているのです。

 

4: 礼拝から始める

神様は、今日の箇所の「安息の時」の七日目の一日前、六日目に人間を創造されました。ここでは、【我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。】(創世記1:26)と語ったのです。人間はすべてを支配するために、神様にかたどられ、神様に似せて造られたのです。聖書において「支配」するとは「仕える」ことと言ってよいと思います。人間はこの世界に生きる被造物を「支配」すること、言い方を変えれば、神様が「良し」とされたこの世界に、「仕える者」とされたのです。人間は、この世界に生きる、すべての造られしものが神様のもとに平安に暮らすことができる世界を守ることを任されたのです。

しかし、今の人間は、この世界も、自然も、そして時間も、まるで自分のものだと思い違いをしているのではないでしょうか。それこそ、むしろ自分たちの利益のために、「より早く、より効率的に」と求めて、時間の意味、生きる意味を見失っているのです。時間と空間を切り詰めた結果、鶏は、不安定になり、混乱し、最終的に暴力化するということでした。人間も同じように、ストレスの中、攻撃的になってっている。しかもその中で鶏がくちばしを縛って押さえつけていったように、人間も、お互いを力によって、押さえつけ、傷つけ、傷つけてしまっているのです。

現在は、ウクライナにおいて悲しい戦争が続いています。ロシア、プーチン大統領を擁護するつもりはありませんが・・・この戦争は、その一人の問題、一つの国の問題だけではなく、人間全体が生きる、この社会が、ストレスを生み出し、自分だけの利益を求め、お互いを押さえつけ、傷つけあい、生きる意味を見失っていく中で、生み出した社会のひずみによって起こった一つの出来事ともいうことができるのではないでしょうか。

私たちはどうすればよいのでしょうか。もはや人間にはどうすることもできないのでしょうか。この教会には附属の幼稚園がありますが、これからを担う幼稚園園児には、何を教えていけばよいのでしょうか。このような私たちに神様は、まず、礼拝をすること、神様に目を向けることに立ち返ることを教えるのです。神様が造られたこの世界を、もう一度、神の目から見ても良いと言われるような世界に戻すために、私たちは生きていきたいのです。私たちがやらなければならないことは何でしょうか。最近はSDGsという言葉をよく聞くようになりましたが、これは「持続可能な開発目標」を意味し、人間が、この地球で生き続けていくために「持続可能な世界」を実現するために進むべき道を示したものです。

 

私たちが、この世界に目を向け、変えていかなければならないことがたくさんあります。しかし、だからこそ、私たちがまず一番最初に行わなければならないことは、自分自身の生き方、生きる道をまず神様に向けること。神様と顔と顔を向き合わせて生きることなのではないでしょうか。そのため、わたしたちは神様にかたどり、神様に似せて造られたのです。今、このとき、私たちは今一度、神様に礼拝すること、神様に目を向けることからもう一度、人生を始めていきましょう。そのために立ち止まりましょう。そして、自分の時間が何のために使うのか、この時間はだれのものなのか、もう一度考えてみましょう。(笠井元)