8章において偶像に供えられた肉についての議論がなされました。その結論として今日の箇所があります。パウロはこのように言いました。【あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます】(8:11)【彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。】(8:12)【兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。】(8:13)
パウロはこのようにも言いました。【偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。】(8:1)
知識や人間としての強さは人を高ぶらせ、他者に躓きを与えるものとなる。それに対して、「愛」が「平和」を造り上げと教えるのです。
23節ではこのように言います。【「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。】(10:23)
「すべてのことが許されている」。これがコリントの教会の知識を持つとされる人の意見でした。この考えのすべてが間違っているわけではないのです。しかし、この考えが、コリントの教会において争いを起こし、他者を傷つけることにつながっていたのでした。先日ロシアのプーチン大統領は聖書の言葉を使って、【友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。】(ヨハネ15:13)と言い、兵士たちが戦争で命を捨てて戦うことを尊いことだと語ったのです。聖書の言葉は捉え方、伝え方を変えると、人が人を傷つけることを正当化してしまう言葉ともなる、この危険性を覚えておかなければなりません。
パウロは、「すべてのことが許されている」、しかし「すべてのことが益になるわけではない」また「すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」と教えたのです。
2: 他人の利益を追い求めなさい
【だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。】(10:24)
当時は、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との生き方の違いがありました。ユダヤ人キリスト者にとってはどこまでユダヤ社会に留まるのか、異邦人キリスト者にとっては異邦人としての生活をどこまで続けるのかということが問題となりました。
わたしたちにとってどのように生きることがキリスト者として生きることなのでしょうか。パウロは、その日常の生き方としての基準として、【自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。】と教えたのです。
パウロは、25節、27節では「何でも食べなさい」と教え、28節では、【しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。】(28)と教えました。
まるで真逆のことを教えているように見えます。しかし、パウロは、これまでと同じように、キリスト者としての自由と、自由をもった者の生き方とを教えているのです。キリスト者は自由であり、この世のルールに囚われることはない。だから「何でも食べてよい」のです。しかし、それが他者にとって益となることなのかを考えて、生き方を選び取っていくことの大切さを教えるのです。
パウロは、29節において【どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。】(29)と言いました。
キリスト者は何ものにも支配されない。ただ神様のみに支配される者なのです。キリスト者は神様に従う者としての自由をもって他者のために生きるのです。神様は自由のうちに御子イエス・キリストを人間のために十字架に死なせた。イエス・キリストは人間に支配されたのではなく、自由をもって神様に従い私たちのために死なれたのです。これがイエス・キリストの生き方です。(フィリピ2:1-11)
キリストに倣う生き方とは、神様から与えられている自由をもって、他者のために生きることです。
3: 神の栄光を現す
【だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。】(31)
「何をするにしても、すべて神の栄光を現すために」これが、キリスト者の生き方です。私たちも毎日生きている中で、神様の栄光のため、他者のために生きるという生き方を選んでいきましょう。
私たちがこの世で何も考えずに生きるとき、その生き方は、「自分のため」となってしまうのです。なんとなく、何も考えずにただ日常を過ごしていく。そのようなときに、私たちはいつのまにか「自分のため」に生きてしまっていくのです。
だからこそ、私たちはいつも考えている必要があるでしょう。いつも神様に立ち返る必要があるのです。そのために教会があり、礼拝があり、祈りがあるのです。わたしたちは神様の栄光のために生きるため、いつも考えて、祈り合い、その道を選び取っていきたいと思います。(笠井元)