1: ピラトの裁判
今日の箇所ではバラバがイエス様の代わりに釈放されます。ピラトが毎年、囚人を釈放していたということは、マルコとルカには記されていません。ただ、実際に行っていたかどうかは別にしても、ピラトはそれだけの権限と責任を持つ者であったのです。ピラトはイエス・キリストが妬みにより連れて来られた者であり、正しい者だと知りながら、その者を十字架刑とし、暴徒であったバラバを釈放したのです。
2: 群衆という存在
群衆は釈放される者としてイエスではなくバラバを選んだのです。これは祭司長たちや長老たちによる扇動によるものでした。群衆とは何でしょうか。それこそ名前のない、顔も見えない、主体性のない、責任をとらない、それでいて確かに力を持つ存在ということができるのです。ここではローマの総督を動かすほどの力を持っていたのです。私たちは、この群衆という存在の恐ろしさを覚えると同時に、自分がその一部として存在しているということ、自分の発信する些細な情報によって、人を傷つけていくという恐ろしさを覚えておく必要があるのです。
3: 責任から逃れようとしたピラト
ピラトの妻は夢でイエス様の正しさを教えられました。しかし、ピラトはその妻の助言を聞くことなくイエス様を十字架刑としていったのでした。ピラトはこの自分の判決が間違っていることを理解していたのです。だからこそ、この判決から発生する責任は自分にはないとしようとしたのでした。ピラトは、水で自分の手を洗うことから、この判決においてピラトは「私には責任はない、お前たちの問題だ」(24)としたのです。
4: 人間の罪を負われたイエス
イエス様の死は、バラバの救いに繋がっています。それは、バラバが何かを持っているからでも、何かをしたからではなく、ただただ、イエス・キリストが十字架刑にされることによってバラバが救い出されたのです。私たちは自分自身では負うことのできない、大きな罪を背負われたイエス・キリストの担われた罪の重さ、責任の大きさを見たいと思います。イエス・キリストが、私たちのすべての責任を背負ってくださった。それほどに、神様は私たちを愛してくださっているのです。今、私たちは、ただ神様の愛にすべてを委ねていきたいと思います。(笠井元)