1: キリストの体としての教会
今日の言葉を理解するために聖書が教える教会像について見ていきたいと思います。「教会はキリストの体」と語られています。(Ⅰコリント12:27、エフェソ1:22-23、コロサイ1:24)
コリント12章では【そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。】(Ⅰコリント12:18)、【 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。】(Ⅰコリント12:26)と教えます。私たちはキリストの体の一部分であり、一つの部分が苦しめばすべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ、これがキリストの体とした教会なのです。
教会には男性、女性などの違いはあったとしても、そこに上下関係はなく、差別をするものではない。だれかが傷つけば、すべての者が傷つく。共に喜び、共に悲しみ、共に苦しむ共同体なのです。
2:コリントの教会で起こっていた問題
今日の箇所は「女性が祈ったり、預言するとき、つまり礼拝をする際に、頭にかぶり物をしなければならないのかどうか」という問いがコリントの教会からあり、その問いに対してのパウロの答えとなります。パウロはこれまでの習慣通り、「男性はかぶり物をすることなく、女性はかぶり物をしなさい」と教えました。
パウロは【ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない】(ガラテヤ3:28)とも言います。このパウロの教えを受けたコリントの教会だからこそ、女性がかぶり物をしないで「祈りや預言」、つまり、「礼拝をする者」が、実際に現れていたとも考えられています。
現代聖書注解では、コリントの人々はパウロに「キリストにある自由を表すために、これまでの習慣から離れて、礼拝の時にかぶり物をしない女性が出てきている。しかし、臆病で保守的な者がこれに反対している。だからこの反対する人を説得してほしい」とお願いしていたのではないかと言われています。しかし、パウロは逆に礼拝でのかぶり物について、従来の習慣、秩序を守るようにと教えたのでした。
3: かぶり物の意味
この、かぶり物をするということの一つの意味として、かぶり物をすることで、その女性は、男性の力、権威のもとに守られていることを意味していたとされます。逆に、かぶり物をしない女性は、男性を誘惑しているともみなされたそうです。10節では【だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。】(Ⅰコリント11:10)と言います。「天使たち」とは「堕落した天使」を意味し、そのような者たちを誘惑することのないようにかぶり物をしなさいと教えているということです。
4: 礼拝の持ち方を考える
パウロは10章において、【「すべてのことが許されている。」しかし・・・自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。】(Ⅰコリント10:23-24)【だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。】(Ⅰコリント10:31)と言いました。
すべては神様の栄光を現すために。今日の箇所からは教会として礼拝をどのように持つのか。どのように整えるべきかを考えたいと思います。教会は弱さを持つ人間の集まりです。そこには時に争いが生じることもあるし、変化を必要とすることもあります。ここではパウロは変化ではなく秩序を守ることを優先しました。しかし、時に、秩序を守ることではなく、変化を必要とすることもあるでしょう。
5: 3節 「頭」の理解
「説教黙想・アレテイア」という雑誌ではカール・バルトの理解を用いて、3節の「頭」の理解を語ります。
バルトは、3節b「女の頭は男」の「命題には、直接に、3節aの命題「すべての男のかしらはキリストであり」が先行しており、また直接に3節cの命題「キリストのかしらは神である、があとに続いている」と語りながら、しかし「それらの命題は何の、段階的順序についても述べていないのである」と注意を促すのです。3節b「女の頭は男」は3節a、3節cの真ん中にある。つまり男の上にキリストがおられ、神の下にキリストが立たれるということから、男の下に女が立つということの女の側にキリストが立っていると言う。
結論として、バルトは「上の秩序はキリストのものであり、また下の秩序もキリストのものであり、男の場所はキリストの場所であり、また女の場所もキリストの場所である、ということを通して規定され、限界づけられている」とするのです。
6: 主において 変化する秩序の中で
パウロは、当時の従来の教会の習慣を守ることを勧めました。それから2000年、女性は、不平等な社会において、平等を求め続け、女性の立場が男性より低いという考えは少しずつ変えられてきたのです。私たちは、キリストを証しする教会としてどのような形であるかどうか、新しい礼拝の秩序がキリストの体としてあるかどうか、秩序を守るべきか、それとも争いが起こったとしても、変化を求めていくのか。その中心に、神の栄光を現しているかどうかという指針をもって、教会の形、礼拝の持ち方を考えていきたいと思います。(笠井元)