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2022.4.3 「十字架の上で徹底的に苦しまれた」(全文)  マタイによる福音書27:27ー44

1: イエスの沈黙

 今日の箇所において、イエス様は十字架につけられていきます。27節からは、その十字架の前に、イエス様が、ローマの兵士たちに侮辱され暴力を受ける場面となります。ローマの兵士は、無力で敗北者のイエス様を侮辱し、ふざけて、まるで勝利者のような形として、赤い外套を着せ、冠をかぶせたのです。また、王の持つ錫杖に見立てて葦の棒を握らせ、ひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と叫び、笑ったのでした。この時ローマ兵は「部隊全員」と記されているので、約500人から600人ほどいたと考えられています。そのような者たちが、皇帝の戴冠式に見立て、ひざまずき、からかい馬鹿にして、侮辱したのでした。そして、30節からは一転して、唾を吐きかけ、葦の棒でイエス様をたたき始めたのです。

イエス様は、このような兵士たちの侮辱や暴力の中、何も語りませんでした。イエス様は、侮辱や暴力の中、恐れ、何も言うことができなくなったわけではないのです。そうではなく、イエス様は、何か言葉を発することで対抗するのではなく、むしろ、積極的に沈黙を守ったのでした。イエス様は、沈黙という道を選ばれたのです。これが、イエス様の選ばれた道なのです。イエス様は、無力にされ、笑い者にされ、人格を傷つけられ、存在を否定される。その道を選ばれたのです。この神の子、イエス様が無力な者とされる中にあって、神様は、無力な私たち、傷つけられる私たち、痛みをもつ私たちと、共に歩む者となられたのです。

私たち人間の造り出す社会は、強者が弱者を傷つけ、その人格、その存在を否定していく社会です。社会ではいじめや差別、ハラスメントが絶えないのです。わたしの姪っこは、保育園でいじめられ、保育園に行けなくなったことがありました。保育園の園児からすでにそのような社会が作られていくのです。そしてその社会は、小学生、中学生、そして大人へとつながっていくのです。人間は神様から頂いた知恵をもって、他者を助け、他者と共に生きる道を選ぶのではなく、他者を傷つけて、侮辱し、存在を否定する道を選んでしまっていくのです。

そして、だからこそ、そのような人間を救い出すために、イエス様は対抗されるのではなく、その中で沈黙を保たれることによって、徹底的に小さい者となられていったのです。ここに神様の愛があるのです。私たちはどのような時にあっても、決して一人ではないこと、イエス・キリストが共にいてくださるということを覚えたいと思うのです。

 

2:  主は十字架につけられた

このことは34節の、イエス様が「苦いものを混ぜたぶどう酒」を飲ませようとされながらも、飲まなかったことへと続きます。この「苦いものを混ぜたぶどう酒」とは麻酔のようなもので、痛みを少し軽減するものでした。当時の十字架刑においては、その痛みがあまりにも強すぎるため、痛みのショックで死んでしまわないために、このような「苦いものを混ぜたぶどう酒」を飲ませたのでした。しかし、イエス様は、この「苦いものを混ぜたぶどう酒」を飲まれませんでした。イエス様は、人間の受ける痛みの最後の最後まで受け止められたのです。人間としてのイエス様は、その人間的感情の中から、神様に「できればこの杯を取り除いてください」と祈りました。それほどに恐れの中にあったということです。同じように、この時のイエス様の痛みは、「神様だから大したことはない」というものではないのです。イエス様は、人間として苦しみ、痛みを受けられた。それは想像を絶するものであったでしょう。しかし、イエス様はその痛みを最後まで、徹底的に受けられたのです。イエス様は、このすべての痛みを受け取られる中、十字架につけられていった。イエス様はそこまで、神様に徹底的に従い続けた。そしてそこまで徹底的に、私たちと共に生きる道を選ばれたのです。

現在は、私たちの社会は、多くの人が希望を失っています。新型コロナウイルスの感染が拡大するなかにあって、世界中が不安に陥る中、ウクライナにおける戦争が起こっていったのです。今、誰が、この世界を見て、希望を持つことができるでしょうか。「なんでこんなことが・・・」。私たちは、この「恐怖」「絶望」に堕とされているのです。しかし、だからこそ、このような絶望に堕ちていく私たちのところにこそ、イエス・キリストは来てくださったのです。私たちは、このイエス・キリストがどこまでも、その痛みを受けられたことを覚えたいのです。神の子が、人間として、私たちと同じ者として、その痛みを受けられたのです。イエス様はその痛みに、目を背けることなく、すべてを受けてくださった。そのことによって、私たちのすべての痛みを共に受ける者となってくださったのです。

3: イエスは民に捨てられた

35節においてイエス様は十字架につけられていきます。そこには右と左に十字架につけられた二人の強盗がいました。イエス様は、この強盗にまでののしられたのです。それだけではありません。通りかかった人々、そして祭司長たちや律法学者たち、長老たちにまでもののしられたのです。イエス様はローマの兵、同胞の民、隣に傷つく強盗にまでののしられ、捨てられたのです。この時、人々は、「十字架から降りてこい」「神の子としての奇跡を見せてみろ」と罵ったのです。これはイエス様への最後の誘惑です。イエス様は、福音宣教へと進みだす、その前の出来事として、マタイ4章において、悪魔から誘惑を受けました。その時の誘惑も、「あなたが神の子なら・・・石をパンにしてみろ、神殿から飛び降りてみろ」という誘惑を受けられたのです。神の子イエス・キリストにとって、石をパンにすることなど造作もないことであり、もちろん十字架からおりることもできたでしょう。しかし、イエス・キリストは十字架から降りることは選ばれなかった。そうではなく、十字架に留まり続ける道を選ばれたのです。これが神の子イエス・キリストの選ばれた道です。このことによって、イエス・キリストは神様の愛を表したのです。

 キリストの表された神様の救いとは、人々に、驚くしるしを見せ、自分の力にひれ伏させることではありませんでした。力で人間を仕えさせることではなかったのです。イエス・キリストの表された神の愛、救いの御業とは、キリストがこの世の底辺に来られた出来事なのです。イエス・キリストは、苦しむ者と共に苦しみ、泣く者と共に泣く者となられたのです。ここに神様の愛が示された。ここに神様の救いが示されたのです。イエス・キリストは、この世において、敗北者となられたのです。イエス・キリストは、その敗北者の道を選ばれたのです。キリストは、その敗北者となられることを通して、本当の勝利者となられたのです。

 

4: キリスト仕える

 最後に、この場面において、突然、イエス様の十字架を担がされた「キレネ人シモン」から学んでいきたいと思います。シモンは、イエス様の十字架を担ごうとはまったく思ってはいませんでした。無理矢理に担がされたのです。しかし、そのことを通して、シモンはイエス様に仕える者とされたのです。このシモンの姿に、私たちは、イエス様に仕えるということを見たいのです。

 シモンは目の前にいるイエス様を自分の救い主として、信じて仕えたのではないのです。よくわからないうちに、無理矢理に仕える者とされたのです。シモンにとってみれば、この出来事は、予定外の出来事であり、突然、苦しみに陥れられた出来事なのです。人間的価値観でいえば、突然、敗北者とされたようなものなのです。それこそこのシモンは「なんでこんなことに・・・」と思ったでしょう。しかし、この中でシモンはイエス様に仕える者となっていたのです。私たちも突然の苦しみや絶望に陥れられる時があります。是非、そのような時に思い起こしてほしいこと。それは、その時に、あなたの隣に、イエス・キリストが共にいてくださると同時に、あなたはイエス・キリストに仕える者とされているということです。この世で、私たちは、どれだけ自分のために生きることが出来ているか、どれだけ自分が充実することが出来るのかばかりを求めています。自分が勝ち組の者となることを求めているのです。しかし、キリストは、敗北者となる道を選ばれました。そこに神様の愛を現されたのです。

わたしたちがキリストに仕える道は、時に、自分自身にとっては不利益なことであり、苦しむことになります。自分の財産、権威、名誉。それらが傷つく道となるのです。しかし、そこにこそ、本当の愛を知るのです。私たちは、自分が苦しみ、痛み、絶望するとき、そのときに、自分がイエス・キリストに仕える者となる道が開かれているということ、私たちは本当に生きるという道があるということを覚えたい。そして神様の愛を受け、神様の愛に生きる者とされていきたいと思います。(笠井元)