1: イエスの沈黙
ローマの兵士はイエス様を侮辱します。皇帝の戴冠式に見立て、ひざまずき、からかい馬鹿にして侮辱した。30節からは一転して、唾を吐きかけ、葦の棒でイエス様をたたき始めたのです。イエス様は兵士たちの侮辱や暴力の中何も語りませんでした。イエス様は何も語ることができなかったのではなく、積極的に沈黙を守った。無力にされ、笑い者にされ、人格を傷つけられ、存在を否定され道を選ばれたのです。イエス様は徹底的に小さい者となられていったのです。
2: 徹底的に苦しまれた
「苦いものを混ぜたぶどう酒」とは麻酔のようなもので痛みを少し軽減するものでした。イエス様は「苦いものを混ぜたぶどう酒」を飲まれなかったのです。それは人間の受ける痛みの最後の最後まで受け止められたことを意味します。イエス様は人間として苦しみ、痛みを受けられた。それは想像を絶するものであったでしょう。しかし、イエス様はその痛みを最後まで、徹底的に受けられたのです。イエス様は神様に徹底的に従い続けた。そして徹底的に私たちと共に生きる道を選ばれたのです。
3: 十字架に留まり続けた
イエス様はローマの兵、同胞の民、隣に傷つく強盗にまでののしられ、捨てられたのです。人々は、「十字架から降りて来い」「神の子としての奇跡を見せてみろ」と罵ったのです。これはイエス様への最後の誘惑です。神の子イエス・キリストは十字架からおりることもできたでしょう。しかし、イエス・キリストは十字架に留まり続ける道を選ばれたのです。イエス・キリストの現された福音、神の愛は、全知全能の力をもって、この世の底辺に来られた出来事なのです。
4: キリスト仕える
最後に、突然、イエス様の十字架を担がされたキレネ人シモンを見ていきたいと思います。シモンは、突然、無理矢理に十字架を担がされたのです。シモンにとってこの出来事は、突然苦しみに陥れられたことであり「なんでこんなことに・・・」と思ったでしょう。しかし、この中でシモンはイエス様に仕える者となっていたのです。
私たちも突然の苦しみや絶望に陥れられる時があります。そのような時に隣にイエス・キリストが共にいてくださること、同時にイエス・キリストに仕える者とされているということを覚えたい。苦しみ、痛み、絶望するとき、そこにイエス・キリストに仕える者となる道が開かれている、希望の道が開かれているということを覚えていきましょう。(笠井元)