季節は春爛漫。或いは初夏の先取のようで、気持ちとしてはもうイースターです。しかし、教会カレンダーは、今日は棕櫚の主日、受難週入りです。15日(金)が受苦日(Good Friday)です。レントの最後の週をキリストの苦難を覚えて過ごしましょう。来週まで卵やチョコレートを食べないとか!むろん、復活、つまり、主イエス様の命と愛の勝利がなかったかのように、悲しみ、嘆いたりしてはならず、逆に、キリストの十字架の苦難がなかったかのように喜ぶこと、から騒ぎも慎むべきでしょう。このような文脈の中で、今朝はゲッセマネの祈りの箇所を取り上げ、この園での主イエスの祈りの格闘の中で実際、何が起こっていたのかに焦点を合わせてみましょう。
1. 目を覚まし、祈りの中で主なる神の救いの業を見ていること
ヘブライ人を抑圧し、奴隷としてこき使っていたエジプトの地から解放し、脱出させた神は、その救いの日の出来事を記念して、このように言われています。「イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は430年であった。430年を経たちょうどその日に、主の部隊は全軍、エジプトの国を出発した。その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。これゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、その夜、主のために寝ずの番をするのである。」(出エジプト12:40-42)。現在「戦争」について言及することさえはばかられる状況の中で、このような箇所を引用しているのですが、少なくとも、主なる神は「難民」であったイスラエルの側に立って、彼らを見張り、徹夜をされたというのです。恐怖と絶望の中で、眠れぬ夜を過ごす「難民」のために、主なる神は、この晩は「寝ずの番」をされたのです。ですから、今朝は交読文の中に、(主が「まどろみことなく見守ってくださるように」という祈りに対して、「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。」と語りかけられているのを聴いたのです。まあ、だから、「あなたがたは眠っても良いのだよ」ということにもなるのでしょうが、寝ずの番を頼まれた、ペトロ、ヤコブ、ヨハネさんは、弟子たちは眠りこけていたのでした。しかし、イエス様だけが目を覚ましておられ、ご自身がご自身の証人となられたのです。
イエス様だけが目を覚ましておられ、ご自身がご自身の父なる神との格闘、深い断絶に橋を架けられた証人となられたのです。
2. あまりにも苦い杯
イエス様は、「できることなら、この苦しみの時が御自分から過ぎ去るようにと祈り、『アッバ、父よ、あなたには何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。』」と祈られました。「杯」とは重たい「宿命」(fate)とは違う「運命」(destiny)を現わしています。神は全能の神、お出来にならないことはないはずです。まあ、神は嘘をつくことができるかなどと戯けたことをいう人がいますが、まあ、そんな戯言は無視して、神はできないこと、なさらないこと、いや、神の存在からして矛盾していることは、人を愛さないこと、人を赦さないことはお出来にならないのではないでしょうか。だからこそ、み子の祈りに父は「沈黙される」。全く沈黙されておられる。なぜなら、人間を愛し、人間と連帯してしまったみ子に答えないことが唯一の答えであったからではないでしょうか。沈黙は1)意志疎通がなされていないか、2)意志は分かっているけれど拒絶して無視しているか、3)沈黙こそ答えであることを意味しているのでしょう。父なる神は、「子よ、忍んでくれよ!」と沈黙の中で、声にならない声で、言われているのでしょうか。きっとそうであると思います。父との断絶、深い溝が、裂け目がそこに広がっていました。あまりにも苦い杯でした。私たち、単なる人間が耐えることのできない、深い溝でした。「この杯をわたしから取りのけてください。」
3. しかし、御心が行われるように
しかし、主イエス様はさらに祈られます。「しかし」! この「しかし」が最高に重要です。「しかし」(all’, ou)。「しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。「私が意志することではなく、親しくはあっても、他者である父、「あなたが意志することを!」「しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。もう説教としてはこれ以上、解釈など寄せ付けません。「しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」とみ子は祈ります。
4. 神が神と格闘しておられる 「アッバ、父よ」神理解の徹底的変化
これで終わることもできないので、少し人間的解釈を付け加えましょう。イエスは人間的に弱いので苦悶しているのではないのです。徹底的に人間の側に、弟子たちの側に立ち、神から捨てられ、深い断絶を味わっておられるのです。見捨てられることさえ受け入れるのです。信仰なき私たちは、中途半端な私たちはこの深い断絶の恐ろしさを想像もできないのでしょう。「ブレーナードの日記」とう本を7~8回読みました。ブレーナードは、信仰の人、ロバにのって当時差別され蔑まれていたインディアンたちに福音を宣教した人です。大学に入学し、最高の成績を取っていましたが、学問が霊的妨げになるので、大学を中退したブレーナードです。若くして、病気の死の床で語った言葉を思い起こします。「もう悔い改める機会もなくなり、神との深い断絶を味わう死というものがこれほど恐ろしいとは思わなかった。」彼は霊的に深いので神を畏れ、死を恐れたのです。
36節でイエスは「アッバ、父よ」と祈っています。現代語でいえば、「ああ、とうちゃん!」とでも言えるでしょう。幼き子のような信頼の言葉です。この言葉の響きが印象に残ったようで、ペテロから聞いたのでしょうか、パウロが引用しています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(ローマ8:15)、また、「あなたがたが子であることは、神が「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(ガラテヤ4:6)
つまりここでは神はみ子イエス・キリストの父として、同時に、父の子としての神キリスト・イエスとして、そして、両者を結び、私たちにその交わりをもたらす聖霊の神として現わしておられるわけです。ここでは、深い沈黙の中で、語られてはいませんが、神はご自身において「私とあなた、私とあなたを結ぶ「われわれ」として愛といのちの「絆」として、聖霊なる神として啓示されているわけです。イエスは単なる義なる人、道徳の教師、民衆のため命を懸けた佐倉惣五郎や大塩平八郎のような義人というだけではなく、徹底的に人に寄り添う、共なる、伴なう、友なる「み子なる神」として、そのように人間を愛し、愛するみ子を深い沈黙の中で見捨て、切り離し、しかし、再び抱き寄せ、「受け留める父」として、交わりの神として現わされました。そして、両者を沈黙の中で結ぶ聖霊なる神として愛の出来事の神として証しているのです。ご自身がご自身の中で、愛と交わり、出来事の神なのです!この消息をパウロは次のように告白しています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずはありません。」(ローマ8:32)。また、「罪と何のかかわりのない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(IIコリント5:21)。さらに、後にヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と告白しています。(ヨハネ3:16)
5. 「心は燃えても、肉体は弱い」
神の闘い、解放の出来事を見張り、「寝ずの番」をせねばならないペトロ、ヤコブ、ヨハネは何と眠りこけています。「それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずかな一時も目を覚ましていられなかったのか。「見張りができないのか」。「心は燃えても、肉体は弱い」。私が牧師として働いていた栗ヶ沢教会の白い壁には「ゲッセマネの園で祈るイエス様」の有名な絵画が掲げられています。しょうもない遊び人でもあった19世紀生まれの爺さんがバプテスマを受けた記念に、「日展」で入選した人に描いてもらった絵画です。ハインリヒ・ホフマンという画家です。
良く見ると、暗がりの闇の中に眠りこけている弟子たちが描かれています。「心は燃えても、肉体は弱い」。この言葉を安易に、「心は強いが、肉体は弱い」などと人間的に理解してはいけません。弟子たちの、人間の心などは、弱く、燃えてなどいません。ここでは翻訳が良くありません。ギリシヤ語では、冠詞付きの『霊は願っているが、肉(つまり人間の心・精神を含めて)は弱い』となります。まあ、冠詞付きの「霊」を人間の精神と理解すれば、「霊ははやっていても、肉は弱いのだ。」(岩波訳)とでも訳すことになります。ここでも三度、イエス様が戻られ、弟子たちがイエス様の苦しみに決して寄り添うことなど出来ず、寝ていることが確認されました。人はだれも、ただ一人イエス様を除いて、起きていることなどできないのです。しかし、その世界のすべての人が眠りこけていても、イエス様ご自身が起きておられ、沈黙において突き放して受容する父と人間の側に立って橋を渡す子なる神ご自身の証人でした。
6. 「立て、行こう!」
格闘の祈りを終えた主イエスは力強く言われます。「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者がきた」。イエス様は十字架で殺されることを予見しておられます。41節の「引き渡される」(paradidotai)」
はキリストの受難を表現するキーワードです。しかし、主は十字架を超えて、復活の朝を見ておられるのです。「立て」(egeiresthe)は死者の中から「引き上げられる」、復活の表現言語なのです。「ああ何と素晴らしき主イエスの愛よ!」です。さあ、皆さん来週はイースターを喜び迎えて共に礼拝しましょう。来週の復活祭に向かって、「立て、行こう!」
「祈り」
アッバ、父よ、み子の名によって祈ります。アッバ、父よ、あなたのみ子は、「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」と約束されました。ですから、親しき友の病からの癒しを、また、怪我をした友、高齢化している友、弱っている友の力づけと支え、慰めを祈ります。苦い杯を取り除いて下さい。「しかし、わたしたちの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。私たちは一度死んだものです。み子がその死によって死を死んで下さり、私たちを死と罪と律法から解放して下さいました。感謝します。み子の名によって、アーメン!(松見俊)