皆さん、イースターおめでとうございます!今日はイースター礼拝となります。主イエス・キリストは復活されました。このイエス・キリストの復活を共に喜びたいと思います。神様は、私たちの罪を打ち破り、死を越えて、新しい命を創造されたのです。今日は、このイエス・キリストの復活による、新しい命、新しい喜びを共に受け取っていきたいと思います。
1: 復活を信じた弟子、福音書記者たち
まず、この復活の記事が記されていったことについて見ていきたいと思います。復活の記事は、今日のマタイによる福音書だけではなく、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書と、すべての福音書に記されている記事となります。しかし、この復活の記事は、それぞれの福音書によって、細かく内容が違うものとなっているのです。内容が違うということは、人に信じてもらうためには、不利な資料となるでしょう。それこそ、裁判や事故などの証拠として提出するとしたら、できるだけ内容の同じものを集めるはずなのです。ではなぜ弟子たちは、このようにそれぞれ違う内容の記事を記したのでしょうか。それこそ、マタイとルカは、マルコによる福音書を知っていたとされます。それでいながら、なぜわざわざ違う記事を記したのでしょうか。それは、この記事が、復活を認めさせるための、ただの証拠としての記事ではないことを教えるのです。 マタイやマルコ、ルカ、ヨハネは復活の「証拠」としての記事を記したのではない。これらは復活を信じる信仰を得るための記事なのです。復活を信じることによって、変えられていくこと、新しく命をいただくこと、この復活によって信仰の出来事、神様の愛に触れるという出来事が起こされていくために記された記事なのです。
弟子たちは、イエス様の十字架と復活による、新しい命の創造を記し、伝えたのです。それこそ、十字架の時、イエス様の死を見ることもできず、逃げ出した弟子たちです。その弟子たちが、この後、復活を語り続け、そして、その復活の言葉を受けて、福音書記者が復活の記事を記していったのです。多くの反対、多くの否定、迫害のなかでも、弟子たちは、この復活を語り、記し続けたのでした。ある意味、今、ここに、この復活の記事があること自体が、変えられた弟子の姿があることとして見ることができるのです。それこそ、この記事があること自体が、新しく生きている弟子たちを表し、それは、新しい命を受けて、変えられた弟子たちの命の姿を見ることが出来るのです。
2: 人間の計画
イエス様の復活の前後、今日の11節~15節、また今日の箇所の前27:62~66においては、イエス様の復活を否定する人々の働きについて記されています。ユダヤの祭司長たちや長老たちは、イエス様が「三日後に復活する」と言った言葉を思い出し、墓を封印し、番兵をおいたのです。そして、復活の出来事が起こった後では、「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。」(28:13)と言ったのです。そのようにして、イエス・キリストの復活を妨害するための計画を立て、そのために行動したのでした。 しかし、そのような人間の復活を妨害する計画の中で、イエス・キリストは、それらの計画は、まったく無力だと表すように、復活されたのです。
ここに神様の計画の前にあっての、人間の計画の無力さを教えられるのです。
私たちも、自分の人生の計画を立てていきます。子どもは、大人になったときに、どのような者となるのかを考え、期待して、そのための計画を立てます。幼稚園でも、年長さんが卒園するときには将来になりたいものを発表します。このように、人生設計をすること自体は決して悪いことではないのです。「このようになりたい。だからこのように努力をする」とし、その計画した道を歩くために、目標をもって努力をすることができるのです。計画を立てることは無意味なことではありません。しかし、その人生計画がすべて、完全に成し遂げられていくということでもないのです。時に、その計画が打ち砕かれることもあります。そしてその時、私たちは挫折するのです。
皆さんも、挫折の経験をしたことがあると思います。小さな挫折から、人生を大きく変えるような、挫折を覚えたこともあるかもしれません。または、挫折を恐れて、最初から、挫折しないために計画を変えていくこともあるかもしれません。どちらにせよ人間が、自分の考えたすべての計画を、思い通りに行っていく人生を歩むことができるということは、ほとんどないでしょう。
ここで、番兵たちは、自分たちの計画が崩れていく出来事に出会っていったのです。番兵たちは、イエス様の弟子たちが、遺体を運び出し、イエス・キリストが復活したとされることのないように、その墓の前に立っていたのです。そこに主の天使が来られた。そしてその石はわきへ転がされていったのでした。そして、天使が「あの方は、ここにはおられない」というように、すでにそこにはイエス様の遺体はなかったのです。つまり番兵たちは、自分たちがしなければならない仕事、その計画を守ることができなかったのです。番兵たちは自分たちがしなければならないことを、行うことができなかったのです。
このとき【番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。】(28:4)とあります。番兵たちは、恐れ、おののき、死人のようになった。つまり、生きる希望を失ったということなのです。私たちも、計画が打ち砕かれるとき、そして、そこにある神様の計画を受け入れることができないときに、死人のようになっていくこと、希望を失うことがあるでしょう。
それこそ、いまだに続く新型コロナウイルスの感染拡大によって、私たちはこれまで考えていた人生の多くの計画が変えられたのではないでしょうか。この新型コロナウイルスの感染拡大によって、体調を崩した方もたくさんおられます。それだけではありません。旅行に行こうと思っていたのに、行くことが出来なくなった人もいるでしょう。学校では部活をすることが出来なくなることもあれば、大きな声で歌を歌うこともできなくなりました。スポーツなどの大会や様々なイベントも中止になりました。皆さんにとっても多くの計画の変更があったと思います。また、計画が打ち砕かれることはそれだけではないでしょう。突然の病気や、死、「なんでこんなことに」と思わされるような出来事によって、私たちの人生の計画、予定は崩れていくことが多々あるのです。そして、そのような時に、そこに神様を見ることが出来なくなる中で、私たちは希望を失っていくのです。それこそ、恐れに捕らわれて、生きる意味を失ってしまう。この時の番兵のように、「死人のように」なってしまうことがあるのではないでしょうか。
3: 復活を信じた女性たち 恐れながらも喜ぶ者
それに対して、ここでは、恐れながらも、喜び歩みだした女性たちの姿が表わされているのです。
マグダラのマリアともう一人のマリアは、イエス様の墓を見に行きました。しかし、それは、復活されたイエス様に会いに行ったのではないのです。この時二人は死んだイエス様の、その遺体を見に行っていたのでした。【天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」】(28:5-6)天使は、「十字架につけられた、イエスを捜しているのだろうが、ここにはおられない」と教えます。それは十字架の上で死なれたイエス・キリストは、もはや死のうちにはおられない。「復活なさった」。つまり、「死」を打ち破り、新しい命を創造されたと教えているのです。
私たちは、目の前に恐れること、苦しいこと、困難なことに出会うとき、死にあるイエス・キリストを捜していないでしょうか。このとき、二人の女性は、恐れながらも大いに喜んだのです。女性たちは恐れを失ったわけではないのです。恐れながらもです。それこそ、困難や苦難の中、悲しみや痛みがすべてなくなったわけではない。悲しみ痛みをもっている。それでも、そこに来てくださった救い主、十字架のイエス・キリストを見たのです。二人は、死んだイエス様を見に行ったのです。死なれた方へと向かったのです。しかし、その中で、救い主の復活に出会っていったのでした。
私たちが復活の方に出会うためには、悲しみや痛みを捨てなければならないのではないのです。むしろそこにきてくださった十字架の主イエス・キリストを見ていきたい。そして、その十字架の主が、死を打ち破り、新しい命の創造として、復活されたのです。つまり、だからこそ、私たちも、その悲しみや痛みをもちつつも、それでも「喜び」歩んでいくこと、希望を頂くのです。
最後にニューヨークの病院に記されていた一つの詩を読んで終わりたいと思います。
大きな事を成し遂げるために
力を与えてほしいと神に求めたら
謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。
より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱を与えられた
幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった。
世の中の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった。
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにといのちを授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた。
神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
心の中で言い表せないものはすべて与えられた。
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されていたのだ
私たちは神様の計画に生かされていること。そして、そこには、イエス・キリストの復活を通した希望が、必ずあることを信じて生きていきましょう。(笠井元)