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2022.4.24 「共に神の恵みの下に留まる」(全文)  ローマの信徒への手紙5:1ー5

1:  イースターを迎えて

先週、私たちは、イースター礼拝を迎えました。共に、イエス・キリストの復活を覚え、喜んだのです。現在は、イエス・キリストの復活、イースターの時から、イエス様が天に昇り、聖霊が送られるペンテコステの時、その間の時となっています。イエス・キリストは十字架の上で死なれ、三日目に復活されました。イエス・キリストの復活は、頭で理解するというよりも、その復活の命に出会うこと、そこから溢れる喜びと命の輝きを分かち合い、受け取ることなのです。それこそ、鬱々とし、虚しい人生を歩んでいた者が、喜びに生きる者と変えられること、命を喜んで生きる者とされること、それが復活のイエスに出会うことなのです。

ヨハネによる福音書の20章で、十字架の後、イエス様の弟子たちは、ユダヤ人を恐れて家の戸にカギをかけて縮こまっていたのです。復活のイエス・キリストがその中に来てくださった。そして弟子たちは、恐れる者から喜ぶ者と変えられていったのです。ルカによる福音書24章では、エルサレムからエマオへ、暗い顔をし、とぼとぼと歩いていた二人の弟子たちが、復活のイエス・キリストに出会うことによって、新しく心が燃える者とされ、エルサレムへと歩き出したのです。また、使徒言行録では、キリスト者を迫害していたパウロが復活のイエス・キリストに出会うことで、大きく変えられ、神様の愛を伝える者とされていったのです。

これが、復活のイエス・キリストに出会うということです。それは頭で理解するということではなく、虚しく生きていた者が、喜びに満ち溢れた者とされること。生き生きと生きる者とされること。そのために、イエス・キリストは復活され、新しい命を創造されたのです。私たちは、今、このイースターというイエス・キリストの復活を覚え、ペンテコステを待ち望む、この時に、心を合わせて、復活のイエス・キリストを受け取り、新しい命の輝きを受け取っていきたいと思うのです。

 

 

2:  共に

さて、今日は、この礼拝の後に、定期総会を持ちます。総会の中で、今年度の標語として「共に神の恵みの下に留まる」という言葉を提案したいと思います。昨年度の標語は「神の恵みの下に留まる」という言葉でした。一昨年から、新型コロナウイルスの感染が拡がり、世界中が困難の中に陥る中にあって、苦難の中にあっても神様の恵みに留まり続けることを覚え続けたいと願い、この「神の恵みの下に留まる」という言葉を選んだのでした。今も、この新型コロナウイルスの感染が拡がる中にあります。しかも今は、ウクライナにおいて戦争が続いている中にもあります。そのような困難が続く中、最初は、今年度も、同じ標語にしていきたいと考えていました。ただ、その中でも、特に、新型コロナウイルスの感染が拡がる中で、三密を避け、一定の距離を取ることが勧められ、インターネットによる会議や授業が行われるようになり、人と人との関わりが離れていく現実を見たときに、今年度は、「神の恵みの下に留まる」という言葉に「共に」という言葉を加えていきたいと考えたのです。

今日は、この「共に」ということを中心に考えていきたいと思います。「共に」。「共に生きる」。聖書では、今日の箇所と同じローマの信徒への手紙の12章15節において【喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。】(ローマ12:15)と教えます。「共に」。それは苦難の中にあって、共に泣き、喜びの中で共に喜ぶこと、その思いを分かち合うことです。

 今日の箇所では、【苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む】(ローマ5:3-4)と教えるのです。現在は、世界中が混乱に陥り、不安や苦難の中にあるのです。私たちはこのような苦難の中、忍耐を生み出し、希望を生み出すことができるのでしょうか。昨年の説教において、私は今日の聖書の箇所について語る、宗教改革者のルターの言葉を紹介いたしました。ルターはこのように語ったのです。「患難から希望に至る階段は、地上的に自明の事柄ではないのである。すなわち患難は焦燥を生み出し、焦燥は、強情を生み出し、強情は絶望を生みだす。」つまり、「この聖書の、み言葉は当たり前の言葉ではない。むしろ、苦しみや困難というものは、本来、そのままでは、焦りとか、苛立ちを生み出し、焦りやいら立ちは、頑固や強情を生み出し、そのような時、最後は希望ではなく、絶望しか生まない。」ということです。確かにその通りだと思います。人間が神様の愛を見ることなく、苦難をそのままに受け取る時、そこには焦りや苛立ちを生み出し、最終的には絶望へ陥っていく。これが、人間のそのままの姿、人間が自分を中心としたときの生き方であり、その結果です。私たちが、突然の病気や事故、思いもよらない困難に出会うとき、神様を見ることなく受け取るならば、そこに希望を見出すのではなく、そこには苛立ちや焦り、絶望を生み出すのではないでしょうか。それが人間の、そのままの姿なのです。

 

では、私たちはこの世にあって、「苦難」をどのように受け取っていけばよいのでしょうか。苦難に出会う中、絶望に陥るのではなく、希望を見る者とされていくために・・・、私たちは「イエス・キリスト」「神の愛」そして、「イエス・キリストが共におられる」ということを受け取っていきたいと思うのです。そして、「共に生きる」という道を歩き出していきたいのです。苦難を分かち合い、共に担っていくこと。これは、別にキリスト者ではなくても、多くの人が、「そうすることが良いことだ」と考えるものだと思うのです。貧しい者と共に生きて貧しくなること、困難の中で苦しんでいる人を助けること、社会的なボランティア活動を行うこと、人間的な隣人愛をもって、他者のために生きるということは、キリスト者ではなくても、この世でも素晴らしい生き方とされ、そのように生きる人もおられるのです。人間的隣人愛をもって、苦難を分かち合うことは大切なことで、それを否定するつもりはありません。ただ、その中で人間の限界性というものも感じるのです。

 私も、学生のころボランティア活動を行う中では、困難の中で苦しむ人を見る中で、どうにかしたいと思うことが何度もありました。しかし、そのたびに感じたのは自分自身の人間としての限界性です。自分が誰かを完全に助けることはできない。他者の苦難をすべて分かち合うこと、背負うことはできない。むしろ自分が助けてほしい時もある。自分は助けが必要な弱い人間だと教えられていくのでもありました。そのような人間的な隣人愛の限界性を感じる中で・・・「共に生きる」ということの意味を何度も考えさせられました。私たち人間に、できることは限られています。自分の限界性を感じる中で、私にできることはキリスト者として、イエス・キリストの救いを伝えること。イエス・キリストが共にいてくださるということを、分かち合うこと。これしかできないと思わされるようになりました。そして、このキリストの愛を分かち合うことが一番大切なことなのではないかとも思うのです。

 

 

3:  苦難を共に受けられたキリスト

 私たちは、この苦難、絶望に続く苦しみを「共に」受け取る者とされたいと思います。そして、そのために、イエス・キリストによって示された神様の愛に留まり続けていきたいと思うのです。 神の御子イエス・キリストは、この世界に人間として来られました。神の子が、人間として、人間と共に生きるためにこの世に来られたのです。それは人間の苦難、痛みや嘆き、苦悩や虚しさの続く日々・・・そのすべてを共に担い、絶望に陥っている人間と共に生きるために、イエス・キリストは、この世に来られたのです。そしてその人間の痛みを共に担うための、決定的な出来事として、イエス・キリストは最大の屈辱と苦しみをもって十字架の上で死なれたのです。この十字架をもって、イエス・キリストは私たち人間と「共に生きる者」となられたのです。これが神様の示された愛です。この神様の愛に限界はありません。神様は御子イエス・キリストの人生をかけて、その命を懸けて、人間と共に生きる者、その苦しみを共に分かち合う者となられたのでした。これこそ、全知全能、万物の創り主である神様のなされた限界を超え、時間も空間も超えて、なされた奇跡の出来事なのです。聖書は、苦難は忍耐を生み出すと教えます。「忍耐」とは、このイエス・キリストによって示された神様の愛に留まり続けることです。

 

 苦難に出会う中、私たちは、神様から離れてしまうことがあります。神様の愛を忘れてしまうのです。私たちに与えられる忍耐。それは、苦難の中にあって、このイエス・キリストが共にいて、共に苦難を担っていてくださるということ、神様が私たちを愛してくださっているということに留まり続けることなのです。私たちは苦しみに出会うときこそ、このイエス・キリストによる神様の恵みに留まり続け、信じていきたい、共に、この神様の愛に留まり続けたいと思うのです。

 共に生きる。私たちは、苦難の中、焦りや苛立ちに陥り、絶望する中、そのような中にあって、キリストによる恵みに留まり続けるために、共に祈っていきたいと思います。

 

 

4:  共に、希望を見る

 今日の箇所において、【苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む】と教えます。キリストは、私たちと共に苦しみ、そして共に喜ぶために、十字架で死に、復活されたのです。私たちは、このイエス・キリストの十字架の苦しみと、復活の喜びから「共に希望をいただきたい」と思います。キリストは、私たちと共に苦しみ共に喜ぶために、十字架で死に、そして復活されたのです。 イエス・キリストは、私たちの苦しみを共に担うために、十字架において死なれました。そして、イエス・キリストは復活されたのです。イエス・キリストは虚しく、不安に生きている者に、生きる喜びと、生きる力を与えるのです。そこに「希望」があるのです。

未来に希望がある。自分の力ではどうすることもできない時、それでも神様が共にいてくださる。神様がこの苦難を共に担っていて下さる。このことを覚えるときに、苦しみは絶望を生み出すのではなく、希望へと導くのです。

 アッシジのフランシスコの有名な祈りとして「平和の祈り」という祈りがあります。今日は、この祈りを読みたいと思います。

主よ、わたしを平和の器とならせてください。

憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、

分裂があるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、

闇あるところに光を、悲しみあるところに喜びを。

主よ、慰められるよりも慰める者としてください。

理解されるよりも理解する者に、

愛されるよりも愛する者に。

それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、

許すことによって赦され、

自分のからだをささげて死ぬことによって

とこしえの命を得ることができるからです。

 

 イエス・キリストは、私たちと共に生きるために、「愛される」のではなく、「愛する者」となってくださったのです。私たちは、このイエス・キリストによる神様の愛に留まり続けたいと思います。そして共に生きる者として、愛する者、慰める者、赦す者と変えられていきたいと思います。(笠井元)