1: 十字架の意味を忘れたコリントの人々
コリントの人々は、自分たちは知恵ある者であり、神様の赦しを受けた者と考えていました。神様の恵みによって自分たちは自由にされたから自分たちは何をしてもよい。他者を傷つけても、他者を躓かせても、自分の救いは変わることはないと考えていたのです。パウロはコリントの教会に、福音の中心である十字架を思い起こすことを教えています。
イエス様は、パンを取り、パンを裂いて「この裂かれたパンは、あなたがたのための私の体である」と語りました。イエス・キリストは私たちのため、十字架の上で体を裂かれ、命を捨てられたのです。この神様の愛の業を記念する事柄として主の晩餐式があるのです。
2: キリストの死を記念する 23-25
新約聖書注解ではこの「記念する」ということを「原意では『想起』という意味であり、この言葉はただ過去の出来事を思い出して懐かしむということではなく、過去の出来事の現在化を意味し、単に心の中に起きる何かなのではなく、現実の中での出来事として捉えること」(「新共同訳新約聖書注解Ⅱ」p.104参照)とします。
現代聖書注解では、「記念という言葉は、実際に主を現在させることを意味すると考えられるが、主の晩餐は、『現在』とは全く反対のことを表現しているのであり、主の晩餐は十字架と神の国の間で、イエスの死を記憶することを意味する」(「現代聖書注解コリントの信徒への手紙Ⅰ」p.326-327参照)とします。
前者における「現在化」という言葉は、「聖体拝領」という考えにつながるのではないかと少し引っ掛かります。後者の現代聖書注解における、過去の出来事としての十字架を記憶するということも、それだけでよいのだろうかと思わされるのです。
私たちは、この主の晩餐式を通して、私たちのために十字架の上で裂かれたイエス・キリストの痛み、神様の痛みを通しての救いの業を受け取っていくのです。この痛みは、ただ過去に起きた一つの出来事ではなく、今を生きる、私たちの痛みを共有する痛みです。そのような意味では、イエス・キリストは今も共に痛みを担ってくださっているという意味での「現在化」というものが起こっているとも考えられるのです。
3: 主が来られるときまで 26
主が来られるときまで。イエス・キリストは再び来られるのです。いずれ救いの完成の時、神の国が来るのです。主の晩餐とは、そのことを待ち望み、またそのことを先取りすることでもあります。コリントの教会では、主の晩餐を通して、富む者だけが食事をし、貧しい者たちが空腹でいたのです。ここには、神の国の喜びを共に頂くという教会としての喜びはなかったのでした。主の晩餐は本当の意味での恵みとはなっていなかったのです。
いずれ「主が来られる」。それまで、私たちは「主の死を告げ知らせる」のです。それは主の愛を頂き、愛を分かち合う者として生きるときになされる出来事なのです。
4:ふさわしい者 27-29
27節からの箇所は、「ふさわしくならないと主の晩餐を受けてはいけない」と理解されることがあります。「自分は罪人だから主の晩餐を受け取れない」と言う人もいます。
わたしたちが主の晩餐を受けるために「ふさわしくなる」とは、自分の信仰を深めることや、自分の力で聖くなることではなく、自分では聖くなることはできないということを理解すること。人間からは神様への道は作ることができないことを知ること。イエス・キリストが十字架で死に、救いの御業を成し遂げてくださったことを受け入れ、悔い改めることなのです。ふさわしくなることとは、神様の前にへりくだることです。
5:互いに待ち合わせる 27-34
パウロは「互いに待ち合わせなさい」と教えました。それは、ただ時間的に合わせるということではなく、前の者が後の者に合わせること、つまり富む者が貧しい者に、強い者が弱い者に、知識を持つ者が、そうでない者に合わせるように教えているのです。聖書は、分かち合うことを教えています。
パウロはコリントの人々に、主の晩餐とは、隣人と共に生きるための業であり、そのために来てくださったイエス・キリストの十字架を覚えることであることを教えているのです。私たちも、主の晩餐において、イエス・キリストの十字架を覚えると同時に、隣の人と共に生きること、へりくだること、仕える者となることを覚えたいと思います。(笠井元)