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2022.5.1 「本当の勝利者」(全文)  マタイによる福音書27:57ー66

1:  神様の計画の成就

 今日の箇所は57節~61節と62節~66節までとに分けることができます。この57節からの箇所は、他の福音書、マルコ、ルカ、ヨハネにも記されている箇所となり、それに対して62節からの箇所は、マタイのみの箇所となります。57節からの箇所、他の福音書にも記されている箇所を見る時には、別の福音書である、マルコやルカ、ヨハネとの違いからマタイが特に伝えたかったことを見ることができるのです。

この箇所において、アリマタヤのヨセフという人が登場します。そして、このアリマタヤのヨセフが、イエス様の遺体を受け渡してもらうのです。このアリマタヤのヨセフのことを、マルコでは「身分の高い議員で神の国を待ち望んでいた人物」とし、またルカでは「議員で、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった、神の国を待ち望んでいた人」とするのです。それに対して、今日のマタイは、アリマタヤのヨセフのことを「金持ちであり、イエスの弟子であった」と言うのです。ここでは地位の高さや、神の国を待ち望んでいたといったことは記されていないで、お金持ちであったことと、イエス様の弟子であったことを示すのです。ここに、マタイの意図を見ることが出来るのです。マタイでアリマタヤのヨセフか「お金持ち」とされたのです。このマタイが語ったアリマタヤのヨセフが「金持ち」であったということは、イザヤ書53章の御言葉の成就を意味しているのです。イザヤ53章とは、「苦難の僕」として、イエス様の十字架を預言した言葉として有名な箇所となります。一部お読みします。【彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。】(イザヤ53:4-5

イザヤ書53章では、まさにイエス様の十字架の意味を示す言葉が記されているのです。そして、このイザヤ53章の9節においてこのように語られます。【彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。】(イザヤ53:9)この「富める者と共に葬られた」という言葉の成就として、「金持ち」のアリマタヤのヨセフがイエス様を葬ったと記されているのです。つまり、マタイは、イエス・キリストの十字架、そして埋葬、そしてこれから起こる復活の出来事が、すべて神様の御計画の成就として起こされていることであることを語っているのです。マタイはこのイエス・キリストの埋葬の出来事から、その前に起こった十字架の出来事、そしてその後に起こされていく復活の出来事が、人間の欲望や、弱さ、勝手な思いでなされた出来事ではなく、確かに、神様の御心のうちに起こされていった。そのことを繋ぐための言葉として、今日のこの埋葬の箇所も、神様の預言の言葉通りに行われたことを語っているのです。

 

2:  背後に見える弟子たちの姿

このイエス様の埋葬の出来事を見る時に、ここではアリマタヤのヨセフ、またマグダラのマリア、もう一人のマリアが登場します。またヨハネによる福音書では、以前隠れてイエス様のところに来た、ニコデモも登場します。この今日の箇所には、それ以外の弟子たち、つまり、これまでイエス様に従ってきたペトロやアンデレ、ゼベダイの子ヤコブやヨハネなど、12弟子たちの姿を見ることが出来ないのです。そして、だからこそ、逆に、そこにある弟子たちの姿を見ていくことも出来るのです。弟子たちは、ここにはいなかった。それが、この時の弟子たちの姿です。弟子たちには、イエス様を埋葬する力も、勇気もなくなっていました。もちろん、このときアリマタヤのヨセフがピラトのところに行けたのは、ある程度の地位と富をもっていた人間だからであり、弟子たちには、そのようなものはなかったからともいえるでしょう。しかし、マグダラのマリアや、56節ではヤコブとヨセフの母とされているもう一人のマリア、そして56節ではゼベダイの子らの母も、その場にいたとされるのです。

 この時、イエス様の弟子たちはどこに行ってしまっていたのでしょうか。弟子たちは、イエス・キリストの十字架を受けて、意気消沈し、まさに敗北者として隠れてしまっていた。「イエス様が十字架で殺されてしまった。自分たちも捕らえられてしまうかもしれない。信じて従ってきた方、イエス・キリストが死んでしまった・・・」と、生きる道を失っていた。これがこの時、この箇所から読み取ることができる弟子たちの姿でしょう。弟子たちは、まさに敗北者として、歩んでいたのです。

 

3:  勝利したはずの者の不安

 この敗北者としての弟子たちに対して、祭司長たちやファリサイ派の人たちは、勝利者となったはずでした。これまで何度もイエス様を殺そうとしてきて、ついに、イエス様の弟子イスカリオテのユダを裏切らせ、群衆による反感も買うことなく、やっとの思いでその計画が達成されたのです。本来ならば喜び祝っている姿であってよいはずなのです。しかし、今日の62節からの祭司長たちやファリサイ派の人々の姿を見ると、それは勝利者の喜びにあふれた姿ではなく、不安に囚われている姿を見るのです。人々は、自分たちの計画が達成され、勝利を得たはずなのに、喜びを得るのではなく、不安に陥っていったのでした。この姿から、私たちがこの世で勝利するために、どうすればよいのか、また何を勝利とするのか考えさせられるのです。 

 

 私たちは、一体どうすれば満足できるのでしょうか。どうすることが本当の勝利者となったということができるのでしょうか。地位を得て、富を得て、名声を得て、権力を得る。社会では、それらを手に入れた者たちを「勝ち組」と呼ぶのです。それでは、これらをどこまで得ることができれば、本当の勝利者として満足できるのでしょうか。クレオパトラは若さを求めたと言われます。また秦の始皇帝は永遠の命を求めたとも言われています。どちらも自分が得たものを持ち続けるために、「時間」を手に入れようとしたといったところでしょうか。しかし、私たちは何をしても「時間」を止めることはできない。1秒、1分でも時間を手に入れることはできないのです。それこそ、人間は、神様によって創造され、そしていずれ主の御許に召されるのです。それは誰もが変わりません。そして、その時、この地上において得た、人間的な富や名声は、持っていくことはできないのです。私たちは何を得ることで、本当の勝利者となるのでしょうか。この問いは、私たちが何のために生きているのかという問いに繋がるのです。皆さんは今、何を求めて、何のために生きているのでしょうか。

 私は、今は、牧師・園長として働かせていただいています。その中で時々、特に体力が落ちているときは、持病から、働くことができなくなる時があります。そのような時には、もっと働く時間がもらえれば、もっといろいろなことが出来るのに・・・と思うのです。ただ、その時にいつも、気づかされるのは、自分は何のために、働いているのだろうか・・・ということです。だいたい、もっと働きたいと思っているときは、もちろん他者のため、隣人のためという思いももちろんありますが、牧師でありながらも、恥ずかしいことですが、どちらかといえば、他者に認められたい、尊敬されたいといった、自分の地位や名声を求めていることに気づかされるのです。そして、ではどれだけ働く時間がもらえたら自分は納得できるのだろうか、どれだけ認められればうれしいのか、このように考えていくと、自分の生きている意味をもう一度考えさせられるのです。そのように考えていく中で、本来、「弱さ」と考えられる「病気」も、私には、自分が高慢にならないためには大切なもの、神様が与えてくださった大切な、賜物なのだと考えられるようになるのです。 

 皆さんは、何を手に入れたら、納得ができるでしょうか。どのような地位に立てば、どのような名声を手に入れたら、どのような富を手に入れたら、自分が勝利者となったと実感できるでしょうか。そして、そこに、本当に自分が生きているという思いを満足できるのでしょうか。

 

 今日の箇所では、自分たちの計画が達成され、勝利者となったはずのなか、不安を抱き続ける祭司長やファリサイ派の人々がいるのです。また、もう一方には、自分たちの従ってきたはずのイエス様が、勝利者となることなく、十字架で殺され、敗北者となったと感じて、悲しみ、悩む弟子たちの姿もあったのです。この祭司長たちやファリサイ派の人々、弟子たちの姿を見る時に、イエス・キリストが十字架の上で死なれた中、そこには本当の勝利者はいなかった。誰も勝利者にはなれなかったことを見るのです。

 

4:  本当の勝利者

 今日のこのイエス様の埋葬の記事は、重苦しい雰囲気があります。しかし、この苦しさ、悲しみは、悲しみで終わりません。この埋葬の苦しみは、イエス・キリストの復活によって本当の喜びと変えられていくのです。イエス・キリストの復活。それは、敗北者として死に堕ちていった者が、本当の勝利者として、新しい命を得られたことを意味します。この新しい命とは、神様のために生き、神様に従う命です。ここに勝利者としての命が示されたのです。私たちが困難の中、悲しむ時、突然の虚しさに襲われるとき、生きる希望を失っていくとき、それこそ絶望に陥る時、このイエス・キリストの復活を思い起こしたいと思うのです。イエス・キリストは人間の欲望の内に十字架の上で殺されたのです。しかし、その人間の欲望をすべてを超えた命をもって復活されたのです。そして、それは神様の愛の命、神様を愛し、隣人を愛する命なのです。人間が、自分のために何かを得ていったとしても、その欲望は満たされることはないのです。私たちの欲求は尽きることがありません。そのような私たちが本当に満たされるとき、平安にされるとき、それは、ただ神様のために、神様の愛のために生きるという道を見つけた時なのです。私たちは何のために生きているのでしょうか。どんな生き方をすれば満足できるのでしょうか。それは、ただ一つ、神様のために生きることです。十字架の主イエス・キリスト、復活の主イエス・キリストに従い、神様の愛を表して生きることなのです。私たちは、何よりも、まず、神様の栄光のため、神様の愛を表すために、生きていきましょう。そこに本当の勝利があるのです。神様の栄光のために生きていきたい、すべてを神様に委ね、感謝して生きる道を歩き出しましょう。この時、私たちは本当の勝利者としての道を歩き出すことができるでしょう。(笠井元)