1: 神様の計画の成就
57節からの箇所は他の福音書にも記されている箇所となります。マルコではアリマタヤのヨセフのことを「身分の高い議員で神の国を待ち望んでいた人物」とし、ルカでは「議員で、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった、神の国を待ち望んでいた人」とします。それに対してマタイでは「金持ちであり、イエスの弟子であった」と言うのです。アリマタヤのヨセフが「金持ち」であったということはイザヤ書53章の御言葉の成就を意味しています。マタイは、イエス・キリストの十字架、埋葬、復活の出来事が、すべて神様の御計画の成就として起こされていることであることを語っているのです。
2: 背後に見える弟子たちの姿
イエス様に従ってきたペトロやアンデレ、ゼベダイの子ヤコブやヨハネなど、12弟子たちの姿を見ることが出来ません。弟子たちはここにはいなかったのです。それが、この時の弟子たちの姿です。弟子たちには、イエス様を埋葬する力も、勇気もなくなっていました。弟子たちは、イエス・キリストの十字架を受けて、意気消沈し、敗北者として生きる道を失っていた。これがこの時、この箇所から読み取ることができる弟子たちの姿でしょう。
3: 勝利したはずの者の不安
敗北者としての弟子たちに対して、祭司長たちやファリサイ派の人たちは勝利者となったはずでした。何度もイエス様を殺そうとしてきて、ついにその計画が達成されたのです。しかし、祭司長たちやファリサイ派の人々は勝利者の喜びにあふれたのではなく、不安に囚われていたのです。
私たちはこの世において何を勝利とするのでしょうか。私たちは、一体どうすれば満足できるのでしょうか。どうすることが本当の勝利者となったということができるのでしょうか。イエス・キリストが十字架の上で死なれた時、そこに本当の勝利者はいなかったのです。
4: 本当の勝利者
イエス・キリストは人間の欲望の内に十字架の上で殺されたのです。しかし、その人間の欲望を超えた命をもって復活されたのです。新しい命、神様の愛の命です。私たちが本当に満たされるとき、それは神様の愛のために生きるという道を見つけた時です。私たちは、何よりも、まず、神様の栄光のため、神様の愛を表すために生きていきましょう。そこに本当の勝利があるのです。(笠井元)