いのちと愛の喜びを祝うイエス様の復活祭とペンテコステ、つまり、聖霊降臨・教会誕生の間の50日間のカレンダーの下に生活する私たちです。選んだ聖書箇所はヨハネ10:1-15です。ここでは、羊と羊飼の物語が登場します。ユダヤ系ドイツ人エーリッヒ・フロムという社会心理学者は(Fromm, Erick「人間の心 善と悪の気風」(邦訳『悪について』鈴木重吉訳、紀伊国屋書店、1965年、The Heart of Man. Its Genius for Good and Evil, New York/Harper & Raw, 1964)という本の書き出しで次のように問いかけます、「人間は羊だと信じている人は多い。一方、また人間は狼だと信じる者もある。双方とも自分の立場に有利な論証を集めることができる。人間は羊だという意見を出す人びとは、人間は容易に他人に左右されて、たとえ自分に有害であっても言われた通りにするし、指導者に従って破滅以外の何物でもない戦争に加わり、強大な力の支持を得られさえするなら僧侶や王の過酷な脅迫から、陰に陽に誘いかける人の甘い声に至るまで‐どんなつまらぬことでも信じたものだ、という事実を指摘しさえすれば十分であろう。」フロムは多分、ヒトラーとドイツ人のことを念頭においているのでしょうが、今日のウクライナの悲劇に共通する人間の根深い問題を見ているのかも知れません。…また、フロムは、他方、「ホッブスのような思想家たちは、『人間は同胞に対して狼である』(homo homini lupus)と結論するに至っている。」と言います。人間は羊であるのか、あるいは、狼であるのか?人間は狼でもあり、羊でもあるのか? あるいは、人間は狼でも羊でもないのでしょうか?少数の狼がいて、多数の羊たちと一緒に住んでいるのでしょうか?私が学んでいたスイスの神学院から100メートルくらい北の草の生えている斜面に、20日匹位の羊が飼われていました。トルコやチェコの農村でも羊と羊飼を見ました。主イエス様の時代にも羊と羊飼いは普段の生活のうえで見慣れた風景だったのでしょう。興味深いことは、ヨハネのこの個所で私たち人間は羊であるという言葉は直接語られておらず、「主イエスは良い羊飼である」と言われていることです。人間自身の性癖を分析して、私たち人間は羊であるという言葉は語られておらず、主イエスは良い羊飼いであると言われていることです。ひょっとして、教会員一人一人は迷い易い羊であると考えている牧師や教師たちがいるのかも知れません。
また、「羊の門」という話、つまり、朝になると、夜の間、羊を守っている「囲い」の門から羊たちを放牧のために迎えに来る羊飼いであるのか、こっそり、「柵」を乗り越えて羊を盗む強盗かというと話と、良い羊飼いか、悪い羊飼いかという話が入り混じっているので、今朝は、「羊飼」に集中したいと思います。
1.羊は羊飼の声を聞き分ける(3節前半)
羊は羊飼の声を聞くとありますが、羊たちが妙な人の後についていったら大変です。羊は聞き慣れた羊飼について行き、羊飼は羊たちのことを、その一匹一匹を良く知っています。そこには基本的信頼関係、愛の関係が成り立っています。羊たちは聞き慣れた羊飼いではないと、「ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る」と書かれています(5節)。「ほかの者たちの声を知らないからである」というのです。14節でも「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言われています。たぶん、羊は目が余り利かないので、耳は良いのかも知れません。羊飼いの声を聞き分けるのです。良い羊飼いは羊たちを「ご自分の羊」と呼んでくださっています。実際私たちはイエス様のものなのです。
2.羊飼いは羊の名を呼んで連れ出す(3節後半)
羊たちと羊飼いの愛と信頼の関係は、羊飼いは羊の名を呼んで連れ出すということの中にも語られています。この教会には幼稚園があり、幼稚園のシンボルマークは「小羊さん」ですね。教職員は一人一人の子どもたちの名前を覚えています。一人一人確認して「すべて」の羊たちを連れ出します。遠足に30名連れていって、さあ、帰りましょうということで、人数を数えますと、29名、まあ、一人くらいいいか! 1/30だからとは考えません。これは羊飼いのことではないのですが、先日あるテレビ番組を見ていましたら、青年の牛飼いの人は何と800頭の牛の名前を一匹一匹覚えていて、その名で呼びかけているそうです。800頭ですよ!驚きました!良い羊飼いである主イエスは私たち一人一人を、皆さん、一人一人の名を、その個性を知っていて下さり、「かけがえのない大切な人」として接してくださるのです。私は牧師落第でして、人の名を覚えられないのですが、主イエス様はあなたの名を呼んでくださるのです。ヘブライ人の信仰においては「名」とはその本質そのものであり、この個所では「名」は単数形(kat’ onoma)です。あれやこれやの名ではなく、その人の固有の名です。主イエス様はあなたの名を呼んでくださるのです。これは青年時代の経験です。ある時、仙川教会の野村義雄牧師の配偶者を「玲子さん」と呼びましたが、とても喜んでくれました。「他の教会員は私のことを「牧師夫人」というけれど、松見君は私をわたしの名で呼んでくれて嬉しい」と言われました。良い羊飼いであるイエス様はあなたの名を呼んでくださるのです。
3.羊飼いは先頭に立って行く(4節)
羊飼いは威張って、「自分の後をついて来い」と言って先頭を行くのではありません。狼やライオンなど外敵が来る場合は羊飼いが羊たちを護って闘うためです。少し話がずれますが、主イエス様は先頭にたって、十字架への道を歩まれました。マルコ10:32では「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」とあります。また、ルカ9:51では「さて、イエスが天に上げられる日が近づいたので、エルサレルへ行こうと決意して、その方へ顔を向けられた」(口語訳)とあります。ポール・リースは『わが主の御顔』という著作の中で「畏れのない御顔」という箇所でこの勇気ある恐れのないイエス様の御顔について語り(39-56頁)、先頭に立って、御顔をエルサレム、つまり、十字架への道行を往かれたと語っています。
あるいは、狼や獣たちが後から来るかも知れないので、後ろに気配りしたり、左右にも目をやっているかも知れません。ただ、良い牧草地を目指して先頭を行くのでしょう。ギリシヤ語はただ「前に」(emprosthen)という意味です。私たちは僕として先頭に立って奉仕するでしょうか?主イエスは良い羊飼いとして羊たちの先頭に立って行かれます。私の友人はちょっと力んで、「松見君、私は誰の足跡もついていない処へ行くね」と言いましたが、「残念、主イエスが歩まれた足跡のない道などないよ」と言いました。「前人未踏」などと言いますが、私たちの歩む前には主イエスが進んでくださる足跡があるのです。
4.しかし、逃げてしまう雇人の羊飼いがいる(12-13節)
しかし、狼が来ると、真っ先に逃げてしまう雇人の羊飼いがいると言います。けしからんことですが、金で雇われた雇人でしかないので、狼が来ると真っ先に逃げ出すのです。夜こっそりと闖入してくる羊泥棒もいたようです。
実は「羊飼い」の譬えは元来、政治的指導者のことを意味していたのです。紀元前3千年紀には、シュメール人は羊を飼うことを王と神に適用していました((ブレンキンソップ232頁)。ハムラビ法典の序文には「民の幸福を増進させ、地に正義を普及させ、強い者が弱い者を抑圧しないよう、悪者や邪な者を滅ぼす」ことが王の職務であると語ります(234頁)。預言者エゼキエルはユダ王国の最後の王たちに向かって語っています。「牧者」としての民の指導者に対して「汚職、自己利益、及び彼らが責任を追うべき人々からの搾取という訴えに基づいて」告発しています。彼らは「羊」としての民を養わず、自分自身を養っている(羊の乳を飲み、毛織物を着、肉を食う)ので、「たまりかねた神はご自身が牧者としてイスラエルの民を養う」と預言者は語り、やがて、キリスト、良い羊飼いを派遣すると約束しています(エゼキエル34章)。現在は、大国の政治指導者たち、政府と一体化した軍需産業で金儲けしている企業主など自分のことと金儲けしか考えない、強盗のような指導者たちが勢力を増しているのです。この世界を支配する指導者たちがどのような羊飼いであるのか、教会はこの世の見張り人として目を覚まし、時のしるしを見なければならないのです。
5.良い羊飼いイエス・キリストは羊のためには「いのち」を捨てる(11節、15節)
良い羊飼いイエス・キリストは羊のためには「いのち」を捨てると11節と、12節で言われています。これが出来るのはイエス・キリストだけではないでしょうか。いかなる親しい者であっても、妻や夫、親や子さえもその人の苦しみを代わってあげることも、代わりに死んであげることもできないのだと思います。あるいは、三浦綾子さんの『塩狩峠』の物語にあるように、身を挺して列車を止めるという人もそうさせていただける人はあるかもしれません。しかし、もっと積極的な表現で言えば、少なくとも主イエスは良い羊飼いであり、私たちのために命を捨てることができたのです。皆様をご自分の命と同じように慈しんでくださるお方がおられます。
6.相互牧会への勧め
最後に今日のメッセージを聴いている人たちに問いかけたいと思います。「あなたの羊飼いはだれですか?」そうです、良い羊飼いはイエス様です。イエス様こそ良い羊飼いです。
では、皆さんは、主イエスに倣い、誰の羊飼いですか?私が留学していたスイスの神学校では多少冷たい雰囲気でしたので私の羊飼いはいない感じでした。教会の外では、北海道の滝川に宣教師として数年派遣されていたスイス人夫妻ヌスベルガーさんたちが声を掛けてくれて、子どもたちにはスイス・ドイツ語を教えてくれました。良い羊飼いでした。二度目に私一人がスイスに行ったときには、私が若い神学生の「メンター」(導師)でした!ジェッシーという若いガーナ人が「タカシ、マッサージしてくれ」とやってきました。アジア人はみなマッサージができると思い込んでいるようでした。「おいおい君が年寄りの私にマッサージをするはずではないか!」と言いながら神学の基礎やその神学校の伝統や先輩たちについて語りながらマッサージしてあげました。また、米国のユニオン神学院では、入学当初私の「羊飼」(shepherd)はリチャード・バンバリ‐ハムさんがあてがわれました。生活の仕方、学内の決まりなど、分からないことがあると彼がいつでも相談に乗ってくれました。教会でも、新来者が来ると、あなたの「羊飼い」はこの人ですと紹介してくれる処もあるようです。つまり、羊飼いである牧師が羊である信徒を一方的に牧会するのではなく、牧師も信徒たちから牧会され、信徒たちも信徒相互に支え合うのです。D.ボンフェッファーの言葉を引用します。「われわれには、日ごとにわれわれのためにとりなしの祈りをしてくれる人を必要としている。牧会されることなしに生活する者は、容易に魔術師に、他人の魂を支配する者になる。」(森野善右衛門『説教と牧会』189頁)イエス様から祈られ、教会の方々から祈られ、支えられていることを喜び、私たちもまた、だれかを執り成し祈る者になりましょう。(松見俊)