1: イエスは主である
【ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。】(Ⅰコリント12:3)
聖霊は「望むままに」(11)、私たちを「イエスは主である」と告白するために導かれます。コリントの教会では「霊」の働きを重要視していました。ただ、その働きとは「超自然現象」を行わせるもので、それが力ある業と考えていたのです。
ペンテコステの時に、イエス様の弟子たちは様々な言葉で福音を話しだしたのです。この弟子たちの上に起こった現象には大切な意味がありました。弟子たちは聞く人の故郷の言葉で「主の福音」、「神様の偉大な業」を語ったのです。簡単に言うと「すべての者が一番理解できる言葉で、主の福音を宣べ伝えた」ということです。
コリントの教会では、多くの人々が霊の働きとして起こされる超自然現象の出来事に囚われていました。これは一種の偶像です。パウロは何が聖霊の働きの基準となるのかを教えているのです。「イエスは主である」と告白しているか、「イエスは神から見捨てられよ」と言っているか、これが聖霊の働きを見分ける基準だと教えているのです。
2: 賜物、務め、働き
4節からの言葉で、「賜物」、「務め」、「働き」について教えます。「賜物にはいろいろある」(4)。8節から「知恵の言葉」「知識の言葉」、「信仰」、「病気をいやす力」「奇跡を行う力」、「預言する力」、「霊を見分ける力」、「種々の異言を語る力」、「異言を解釈する力」と教えます。ローマ書では別の言葉で賜物について記されています。(ローマ12:6-8)
コリントの人々は、聖霊による賜物は超自然現象を起こす力と考えており、それらが起こされた現象の大きさにより、その人の優劣が付けられていたのです。賜物は自分の力、誇りを得るためのものとなっていたのです。ここでは【賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。】(5)と教えます。
続けて「務め」と「働き」について語ります。「務め」とは「奉仕」を意味する言葉でもあり、「働き」とは、神の業が表されることを意味します。主による務め、奉仕、神による働き、神の業、神の愛を表す働きも色々あるのです。それぞれが形を変えて、いろいろな形で、神様の愛を表すのです。そのまとめとして、7節において【一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。】(Ⅰコリント12:7)と教えます。
3: 他者と比べた評価
コリントの人々は聖霊による賜物を、自分の誇り、自分の優位性を表すためのものとして考えていました。私たちは、自分に与えられている賜物をどこに見ているでしょうか。自分に与えられている強さのみを喜んでいないでしょうか。弱さを賜物として喜んでいるでしょうか。自分にとって弱さや欠点で神様に出会うことができることもありますし、他者の弱さを共有することができることもあるでしょう。
アレテイアという本では、今回の箇所からこのようなことが記されていました。「あまり熱心に準備をするゆえにこそであるが、時に牧師は自分一人で説教を語っているような錯覚に陥ることはないだろうか、そして褒められれば驕ってしまう。・・・説教は自分一人で語るのではない「イエスを主」と告白させる、聖霊が語る言葉を与えてくれる。良い説教は説教者が誇るためではない。教会がその賜物によって生きるために霊の働きが個人に与えられた結果である」(『説教黙想・アレテイアNo.102』p.71)
今日の箇所では、何かが出来ることや、何かができないことで、お互いを評価するのではないことを教えています。
4: 全体の益となるために
【一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。】(7)
私たちは、それぞれ個性を持つ違う存在です。それぞれに違う賜物を与えられています。それぞれの賜物を分かち合うことで共同体全体の益となるのです。賜物は、自分が独占し、自分のためだけにあるのではなく、それぞれを生かし、それぞれの存在をもっと喜ぶために与えられているのです。私たちは、この自分に与えられている賜物、隣人の持つ賜物を感謝したいと思います。
神様は、私たち一人ひとりを創造し、その存在を喜んでくださっています。私たちは、お互いの存在に目を向けていきましょう。自分の存在、お互いの存在の素晴らしさを確認しましょう。
イエス・キリストは完全な者でありながら、自ら一番弱い者となられ、一人の弱い者、一人の貧しい者の存在を喜ばれました。聖霊は、私たちを、このイエス・キリストを「主」と告白して生きること、お互いの存在を喜ぶ道を導いているのです。(笠井元)