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2022.5.22 「光に照らされて生きる道」(全文)  Ⅰヨハネの手紙1:1-10

1: 聞いたもの、目で見たもの、手で触れたものを伝える

私たちは4月17日にイエス・キリストの復活を覚える、イースターの時を迎えました。聖書では、イエス様は復活されたあと、天に挙げられ、その後、聖霊が降ることが記されています。聖霊が降ったのは、復活の49日後、50日目とされ、今年は、6月5日の日曜日とります。6月5日は、聖霊降臨日、ペンテコステの時となります。現在は、その復活のイースターと、聖霊が降ったペンテコステの間の期間となります。私たちはこの時、復活のイエス・キリストを覚え、その希望を受け取っていきたいと思います。

 今日の箇所では、まずこのように語ります。【初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――】(1:1-2

 ここにおいて記されている、「初めからあったもの、命の言」とは、イエス・キリストのことです。この「命の言」である方、イエス・キリストはこの世に来られた。ここでは、この「命の言」は、わたしたちが「聞いたもの」であり、「目で見たもの」であり、「手で触れたもの」だと言うのです。人々は、聞き、見て、触れた、命の言イエス・キリストを伝えると言います。聞き、見て、触れたということ、つまり、人間である私たちの五感で体験した方。つまり、「肉」として、「肉体」として、この世にこられたことを語るのです。

 イエス・キリストは、この世に人間として、肉体をもって来られたのです。私たちと同じ人間として、この世に生まれ、この世で生活し、この世で生きたということです。私たちは、誰も、イエス・キリストを、実際に手で触れたことも、目で見たことも、その言葉を耳で聞いたこともないでしょう。実は、このヨハネの手紙は、イエス様の十字架と復活からは70年ほど経過した紀元100年ごろに記されたとされ、実際にイエス様に触れた者、見た者はいなかったと考えられています。しかし、ここではそのような「わたしたち」が触れ、目で見、耳で聞いたものを伝えると語るのです。この言葉は、ヨハネの手紙を記した者たちが、実際にイエス・キリストに触れた使徒たちが語る、その証言を、継承した者であり、そして、イエス・キリストが、時間を超え、時空を超えて、私たちと共にいてくださることを教えているのでもあります。

 

2: 人間となられた神、イエス・キリスト

 このヨハネの手紙第一が記された時代には、イエス・キリストが「完全な肉」「完全な人間」として来られたことを認めない者たちが現れていました。イエス・キリストは神の子であり、神であった。

しかし、だからこそ、人間としては、完全ではなく、神がただ人の形をもって来られたと考えたのです。イエス様は100%人間ではない。そのように考える人々は、自分の罪、汚れを見るときに、神様が同じような肉体を持つはずがないと思ったのです。実際に、私たちも、自分の姿、自分の生きている道を振り返るならば、自分が聖なる者であるというよりも、自分は汚れていると思うのではないでしょうか。そのように、神様は聖なる方であり、人間には汚れがあると考える人々が、イエス・キリストは神様であり、イエス・キリストは、100%の人間ではないとしたのです。

 現在でも、このような考えは様々な場所で広がることがあります。また逆に、イエス・キリストは、神ではなかった、ただの人間であり、神様ではなかったという考えを持つ人々もいるのです。そのような考えに対して、今日の箇所では、イエス・キリストは100%神であり、100%人間であることを教えています。100%と100%なので、200%となってしまうのですから、人間の理解を超えている出来事となってしまうのです。

 3節ではこのように言います。【わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。】(3

 神の子、イエス・キリストは神として、父なる神との交わりを持ち、また、肉となり、人となり、私たち人間と交わりを持つ者となられた。私たちにはその交わりが与えられているのです。イエス・キリストは、人間となら得れ、私たちと交わりを持つ者となられた。私たちと共に生きる者となってくださったのです。

 

3: 神様に何を求めているのか

 私たちは、この世界において生きる中、どこに神様を見ているでしょうか。私たちは、神様とは何をしてくださる方と考えているのでしょうか。

私は、父と母がクリスチャンであったので、生まれたときから教会に通っていました。その中で、何も疑うことなく、「イエス・キリストが自分の罪のために死んでくださった」と信じて、小学生のときにバプテスマを受けました。ただ、そのあと、それが自分にとってどういうことなのか、自分の人生にどのような意味があるのかなど、いろいろな疑問が生まれる中、中学生の頃になってから、「イエス・キリストの十字架や復活」の意味についてなどを、もう一度学びました。その時に、聖書を教えてくれた一人の人が、自分の体験として、神様を信じたときのことを話してくれました。小学生の時に聞いた話なので、だいぶ記憶があいまいなのですが、このような話でした。その人は、大学の時にハングライダーをしていたそうで、そんなある時に、墜落してしまい、気が付いたら病院に運ばれていたということがあったそうです。ほぼ体が動かなく、もうどうすることもできないと絶望したそうでした。そのような生きる希望を失う中で、ある人が、聖書を置いていってくださり、ただ、何も考えず、読み始めた聖書から、少しずつ生きる希望を受けて、バプテスマを受けたということでした。

そして、リハビリを続け、ほぼ全身が、これまでと同じように動くようになったそうでした。私は、ひねくれ者なので、この話を聞いたときに、素直に「神様ってすごいな」と思うのではなく、「もし体が回復しなかったら、この人は神様を信じたのだろうか・・・」と思いました。そして、実際にその人に「あなたは、体が回復しなかった場合にも神様を信じたのですか」と聞いてみました。その問いに、その人は、「私は、体が回復したから、神様を信じたのではなく、聖書から、神様の御言葉を受けて、希望をいただいたのです。この事故を通して、自分が、何のために生きるのかを知ったのです。神様が、自分のために死んでくださったように、自分は自分のためではなく、神様のため、そして神様が愛する、隣人のために生きていきたいと思った。そこに希望を見た。だから、希望をもって、リハビリも行うこともできたし、もし、回復しなかったとしても、その生き方は、変わらず、神様のために行きたでしょう」と教えてくれました。 実は、聞いてみたものの、中学生の時の私にとっては、言っている言葉の意味はわかりましたが、この人の思いに共感することはなかなかできませんでした。ただ、よく覚えているのは、「この人は、体が回復したから信じたのではないのか・・・」と思ったことはよく覚えています。

 

 神様は、私たちに何をしてくださるのでしょうか。富を与えてくださるのでしょうか。病気を癒してくれるのでしょうか。地位や権威を与えてくださるのでしょうか。死なれた者が生き返るのでしょうか。もちろん、そうしてくださることを願うこともありますし、そしてそれが悪いことではないのです。ただ、私たちの、神様は、「私たちと共に生きる者」となられた方なのです。私たちと共に生きて、私たちと共に苦しみ、私たちと共に喜んでくださる方です。これが神でありながらも、人となられ、人間として十字架につけられ、死に堕ちたイエス・キリストであり、そしてそこから復活し、新しい命を創造された方なのです。 

 それこそ、現在は、目の前が真っ暗になるような社会となっています。ウクライナにおいての戦争は続き、大切な命が、日々、失われています。そして新型コロナウイルスの感染は、未だに続いており、どこか慣れてしまっているようにも思いますが、今もこの新型コロナウイルスの感染が拡がる中で、苦しんでいる人がおり、また、そのような生活を続ける中で、希望を失っている人々がいるのです。このような今、希望が失われていくこの時、わたしたちは、自分が生きる、この生活の中において、困難に、苦しみ、悩み、死と向き合うときに、イエス・キリストがそこに共にいてくださることを覚えたいと思うのです。イエス・キリストは、神として、人として、私たちの生きる苦しみや痛みを打ち破り、新しい命に生きる道を開かれたのです。

 

4: 光に照らされて生きる道

 私たちが証しするのは、このイエス・キリストの救いです。このキリストによって、開かれた福音の道、喜びの道に歩むことが許されていることを証しするのです。今日の箇所6節、7節ではこのように言います。

【わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。】(6-7

 私たちは神様の光に照らされている、神様の光に包まれているのです。私たちは、苦しい時、悲しい時、自分は闇の中を歩いていると思うことがあります。しかし、私たちにとっての本当の闇、それは、神様の愛を受け入れない者となるときです。神様が手を差し伸べてくださり、「わたしがあなたと共にいる」と語り掛けてくださっている。その恵みを受け入れる時、私たちはどのような場合でも、光に照らされているのです。逆に、神様の恵みを拒否するときに、私たちは本当の「闇の中」にいる。神様との交わりを断ち切るとき、人間は、人間同士の関係も断ち切ってしまっている。交わりを失い、一人になってしまう。それこそまさに「闇の中」に歩んでいる時となるのです。

 神は光です。私たちが神様を知らなくても、神様は、私たちを知っていて下さるのです。私たちが神様に背を向けることがあったとしても、神様が、私たちに背を向けることはないのです。私たちが神様との関係を断ち切ろうとも、神様は手を差し伸べ続けてくださっているのです。これが光の神様。どこにあっても私たちを照らし出す神様なのです。私たちは、この神様の光に照らされている道を生きていきたい。神様の愛をただただ、受け入れる者とされていきたいと思うのです。それは、神でありながらも人間となられた、イエス・キリストが共に生きていて下さることを信じる道です。そこに神様との交わりが始まるのです。

 

 そして、7節では私たちが、この光の中を歩むなら、「互いに交わりを持つ」と教えるのです。

 神様が共にいてくださる。このことを受け入れる時、私たちは、隣の人に目を向ける者とされていくのです。があろうとも、もはや自分は一人ではない。イエス・キリストは十字架と復活をもって、私たちと共に生きる者となってくださった。この恵みを持つ者として、隣の人に目を向けるとき、私たちは、共に生きるということを見るのです。神様は光をもって、私たちに愛を与え、共に生きることを示して下さった。私たちには、愛する道、仕える道、神様によって、交わる道が与えられているのです。わたしたちは、主イエス・キリストが、私たちと共に生きていてくださっていることを覚え、私たちも共に生きる道を歩む者とされていきたいと思います。(笠井元)