1: 比喩的言葉「体」
ここでは教会のことを「体」として比喩的に語っています。人間の体を、社会の一致のために比喩的に使うことは、当時の社会においてよく行われていたことでした。ただ、当時の常識的な使い方は権力者が人々を従わせるために使っていたのです。人間の体には上級として頭や目があるように、下級とされる手や足もある。同じように社会にも、上流階級者もいれば下流階級者も必要なんだ。そこに社会の一致があるとしたのです。ローマ市民がおり、自由な身分の者のために、奴隷がいる。頭に従う体があると、そのように権力に従いなさいと語るために使われていたのです。
それに対して、パウロは常識を覆し、体には様々な部分があるが、そのどこも大切な部分である。そこには上下関係があるのでもなく、どの部分も必要であり、どの部分も「要らない」と言うことはできない。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(26)と教えるのです。むしろ体の中でも、より弱く見える部分がかえって必要なのだとも語るのです。パウロは、権力者が自分たちに従わせるための言葉を利用して、逆に、弱い人々の大切さを語ったのです。
2: 聖霊に導かれて繋がる
パウロはコリントの教会の人々に「体は一つであり、多くの部分からなっている。同じように、キリストの教会も同じである」と語ります。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(13)わたしたち違いを持つ者が、一つの霊によって、一つの体として、教会に結ばれているのです。
「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人はだれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(12:3)
聖霊はイエスを「主」と告白させる方です。同時に、聖霊はイエスを「主」と告白する者をつなげる方です。立場が違い、考え方も違う中で、わたしたちはイエスを「主」と告白する者としてつなげられるのです。
聖霊は、神様とイエス様をつなげるように、私たち人間と神様をつなげ、また、私たち人間と人間をつなげるのです。
3: 自分の弱さを見る
今日の箇所は、基本的には、「教会とは・・・」という話です。今日は、もう一つの見方として、自分の弱さについても見ていきたいと思います。私たちは自分の弱さを受け入れることが出来ているでしょうか。
「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」(22-24)
自分の「要らない」と思う弱さ、その部分こそが、自分にとって必要なのだということを覚えたいと思います。
4: 一番貧弱な者となられた方
イエス・キリストは、一番小さい者、貧弱な者、弱い者、切り捨てられる者となられました。私たちが「主」と告白するイエス・キリストは、十字架の上で、この世において要らないものとして捨てられ、殺されました。
私たちの弱さ、欠点、そのすべてをイエス・キリストは十字架の上で受け止められたのです。だからこそ私たちは、主イエスとつながり共に歩む中で、お互いの弱さ、自分の弱さに、目を向けていくことができるのです。私たちは、主イエスの恵みを受け取ってこそ、お互いの弱さ、お互いの小ささを尊重することができるのです。
5: イエスを主とする~自分を絶対化しない~
私たちは、主イエス・キリストの十字架から、弱さこそ強いという恵みを頂くのです。この価値観の変換、弱さを強さとする価値観に導く方が、聖霊です。「イエスは主である」という告白は、自分を主としない、自分を絶対化しないということでもあります。そして、自分を絶対化しないことは、他者の思いを尊重することにつながるでしょう。この世において一番小さく、弱く、貧弱とされた主イエスを「主」とするのです。私たちは「イエスは主である」という言葉を告白する中でこそ、お互いの弱さを受け入れること、違いを尊重することができるのです。
私たちは、この恵みを受け取りましょう。そして、主と共に、兄弟姉妹と共に歩みだしていきたいと思います。(笠井元)