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2022.5.29 「癒しの御業を受けていく」(全文)  エレミヤ書3:19-4:2

1:  期待する神様

 今日の箇所は、エレミヤ書の2章から始まった、イスラエルに対する悔い改めの呼びかけの結びの部分となります。預言者エレミヤはイスラエルに、神様への悔い改めを呼びかけます。今日の箇所でも、22節に「背信の子らよ、立ち帰れ」と呼びかけます。神様は、イスラエルの民を、立ち帰りと、悔い改めへと招かれたのでした。 

 今日の箇所では、まず神様のイスラエルへの愛の大きさを語るのです。【わたしは思っていた。「子らの中でも、お前には何をしようか。お前に望ましい土地、あらゆる国の中で、最も麗しい地を継がせよう」と。そして、思った。「わが父と、お前はわたしを呼んでいる。わたしから離れることはあるまい」と。】(3:19)神様はイスラエルを愛されました。その愛を、ここでは「望ましい土地、最も麗しい地を継がせよう」と、土地を与えることで表現しているのです。土地を与えるという行為は・・・、創世記13章において、神様が、イスラエルの信仰の父とされるアブラハムに土地を与えることを約束しています。神様は、アブラハムを祝福して、土地を与える約束をされました。今日の箇所でも同じように、土地を与える約束をします。それは、まさに神様の限りない祝福を意味します。神様は、イスラエルを愛し、祝福されたのです。

 

今日の箇所では、この神様がイスラエルを信じて「わたしから離れることはあるまい」(19)と、期待している姿を表します。神様は、人間を信じて、愛を注がれた。祝福されたのです。そして、人間が、自分の愛を喜んで受け取ることを信じていたのです。私たちは、聖書から、人間の罪や神様に対する裏切りというものを教えられています。また、自分の人生を振り返るときにも、様々な間違いや、神様への反抗、関係の断絶といったものをみることができるかもしれません。その中で、なんでもご存知な神様だから、私たち人間の裏切りも予想していたのだろう・・・と、どこか、自分たちの裏切りも計算済みで、神様の愛があったのではないかと思ってしまう、そして、だから「神様は赦してくださる」ことも計画されていたと思うことがあるかもしれません。しかし、神様の愛はそのようなものではないのです。神様は人間が裏切ることを前提で、人間を愛したのではないのです。そうではなく、神様の愛を人間が喜んで受け取り、そしてその愛を受けた者として、愛に生きることを信じて期待していたのです。

 

2:  イスラエルの裏切り

しかし、その神様の期待に反して、イスラエルは神様を裏切っていったのです。今日の20節では、夫婦の関係を用いて、「イスラエルが神様を欺いた」と言います。私たちは、この神様の心の痛みを忘れてしまっていないでしょうか。神様の心の苦しみ、神様が、私たちの裏切りによって傷つかれていることを考えているでしょうか。私たち人間はこの神様の期待を何度も裏切ってしまうのです。そして、それでも私たちが神様に立ち返るときに、神様は喜んで受け入れてくださるのです。神様は、私たちのことを愛してくださっている。しかし、だからこそですが、私たちが神様を裏切る時、神様は、その愛の大きさだけ、大きく傷つき、苦しんでおられるのです。私たちはこの神様の心の痛みを覚えておかなければなりません。痛み、苦しみ、それでも赦して下さる。それでも愛してくださる。その神様の愛と恵みの大きさを覚えたいと思うのです。

イスラエルは、神様を裏切っていきました。21節ではこのようにあります。【裸の山々に声が聞こえる、イスラエルの子らの嘆き訴える声が。彼らはその道を曲げ、主なる神を忘れたからだ。】ここで「裸の山々に声が聞こえる」とあります。これはバアルという土着の神を祀り、淫行を繰り返し、祭儀を行っていたことを意味しています。バアルとは、その地の神様であり、一つには実りの神様、豊穣(ほうじょう)を与えてくださる神様だと考えられています。実際には24節にあるように、むしろ、人間の持つものを食い尽くし、奪い取る神であったのでしたのですが・・・人々は、バアルを、富や豊かさを与えてくれる神様と信じていたのです。

これは、現在の私たちも変わらず求めていることがあるのではないかと思うのです。私たちが富や豊かさを求めていけないということではないのです。富を持つことが悪いことではありません。しかし、私たちが本当に求めるべきは、その富を与えてくださる神様の恵み、神様の思いです。私たちは神様から様々なものを頂いています。まず命を頂いている。そして、それぞれに一人一人豊かな個性を持ち、様々な違いの中、それぞれに多くの賜物を頂いているのです。私たちは、富も、能力も、または欠点だと思うことも、すべては神様の与えてくださっている恵みとして受け取りたいと思うのです。

 

3:  神様の癒し

21節では、このバアルの祭儀の山において、神様を裏切ったイスラエルの嘆きが聞こえるとするのです。この嘆きに神様は【「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。」】(22)と語ります。神様は、イスラエルの民に、「立ち帰れ。」そして「私はあなたたちを癒す」と言われます。ここでは神様は「赦す」ではなく「癒す」とされます。神様は私たち人間の嘆きを聞かれる時に、ただ赦すだけではなく、一歩踏み込んで、癒しを与えてくださる。つまり、神様が手を差し伸べて助けてくださるのです。

この後4章4節ではこのようにも言います。【「ユダの人、エルサレムに住む人々よ、割礼を受けて主のものとなり、あなたたちの心の包皮を取り去れ。さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに、わたしの怒りは火のように発して燃え広がり、消す者はないであろう。」】(4:4)。このように、神様の怒りは、火のように燃えあがり、この火を消す者はないと語るのです。

イスラエル、そして私たちは何度も何度も神様を裏切ってしまいます。神様への裏切りとは、神様の愛を忘れてしまうこと言うことができるでしょう。神様が私たちに命を与え、多くの賜物を与え、恵みと喜びで満たして下さっていることを忘れてしまうこと。そして、むしろ別のものに必要なものを求めてしまうこと、それが神様への裏切りとなるのです。イスラエルの人々は、別の神様としてある、バアルに豊かになることを求めました。皆さんは、いったい何に、命を求め、生きる指針を求めているでしょうか。私たちが陥ってしまう、神様以外に求めてしまうものの一つに、自分の力というものがあります。現代は、特に自分の力だけで生きていこうとする人間が増えているのではないでしょうか。神様に助けを求めないこと、神様を必要としないこと、自分の力のみで生きていこうとすること、それもまた、神様への裏切りの道です。そして、この神様への人間の裏切りのたびに、神様は、苦しみ、痛み、そして怒りを持たれるのです。この神様の怒りの火を消すことは人間にはできない。人間は神様の怒りの火を消そうともしないでいるのです。

 そして、だからこそ、神様はイエス・キリストをこの世に送って下さったのです。イエス・キリストは「悔い改めなさい」と言われました。そして、そのうえで、神様のこの消すことのできない怒りを、イエス・キリストが受けてくださったのです。本来、私たち人間が受け取らなければならない神の怒りを、主イエス・キリストが受けられた。そのため、キリストは十字架の上で死なれたのです。これがイエス・キリストの十字架です。

 私たちは、十字架を見るときに、そこにどれほどの、神様の怒りと赦しがあるのかを覚えたいと思うのです。神様は、人間の裏切りに、悲しみ、苦しみ、怒り、それでも私たちを愛して、自らが苦しまれることによって、赦しを与えてくださったのです。この十字架の業をもって、私たちは「癒し」を得るのです。神様に立ち返る道を作っていただいた。神様が赦しの手を差し伸べてくださったのです。私たちは、このイエス・キリストの十字架によって、赦され、そしてその赦しの出来事を与えられ、癒された。神様に「悔い改める」道、立ち帰る道を与えられたのです。私たちは、この神様の愛を受け、神様に立ち帰っていきたいと思います。

 

4:  世界に広がる神様の祝福

 22節後半からは、神様の癒しに対する、イスラエルの応答となります。イスラエルは、【「我々はあなたのもとに参ります。あなたこそ我々の主なる神です。」】(22)と悔い改めの言葉を告白します。イスラエルの民は、神様に立ち帰るのです。開かれた赦しの御手を受け取っていくのです。神様は、悔い改めるイスラエルの裏切りを赦され、癒されたのです。同様に、神様は私たちの裏切りを、イエス・キリストの十字架を通して、赦し、そして神様に繋がる道を創造してくださったのです。私たちもまた、この神様の救いの御業に応答していきたいと思います。そして、「あなたこそ、主、あなたこそ、私たちの神」と告白していきたいと思います。

 神様は立ち返るイスラエルにこのように語ります。【もし、あなたが真実と公平と正義をもって「主は生きておられる」と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする。】(4:2)「主は生きておられる」と神様の救いの告白をするとき、その祝福は、「諸国の民」、つまり全世界へと広がっていくのです。神様の前にあって、悔い改め、その赦しの御業を受け取る時、その癒しの祝福は自分の中で留まるのではなく、そこから隣人へ、そして世界に広がっていくのです。神様の愛は、自分のうちに留めておくものでもなければ、留めておくことはできないものなのです。私たちが、神様の前にへりくだる時、神様の愛は、どこまでも広がっていくのです。これが、神様の癒し、神様の愛なのです。

 

5: 少しずつ耕されていく

 私たちは、この神様の祝福が、世界中に広がることを信じて委ねていきたいと思います。この祝福の広がりについて、4章3節では、新しい土地の開拓から語ります。新しく土地を開拓することは、簡単なことではありません。それこそ固い土地を少しずつ掘り起こし、土を柔らかくし、そこに、水や栄養を与えていかなければならないのです。そのように、私たちの心も、簡単に神様の救いを受けいれていくことができるわけではないのです。それでも、少しずつ、少しずつ、心が耕されるように、祈っていく必要があるのです。私たちは、神様が必ずその愛を広げてくださるということを信じて、委ねていきたいと思うのです。主なる方が、新しい土地を開拓するように、この福音の恵みを広げくださるのです。私たちはただ、その神様の業、神様の福音の恵みが広げられていくことを信じて、祈り続けていきたいと思うのです。何度も間違えながら、それでも神様に従い、へりくだり、悔い改めて、新しい生き方、神様の恵みを頂いた者として、新しく生きていきたいと思います。(笠井元)