1、ペンテコステって何?
キリスト教の3大祝祭日として、「クリスマス」「イースター」「ペンテコステ」が挙げられます。イエスキリストの誕生と復活を記念するクリスマスとイースターは、キリスト信仰者以外の方たちにもよく知られています。一方で「ペンテコステ」って何?と尋ねれば、「キリスト教の大事な行事みたいだね」という程度の認識しかありません。ペンテコステはキリスト信者だけが知っている暗号の言葉、異質なものとして捉えられる現実があるように感じます。
ペンテコステは、50番目を意味するギリシャ語「ペンテーコストス」を語源として、五旬節とも呼ばれます。旧約時代では、「過越の祭」に続く種を入れないパンの祭りがあり、そこで大麦の初穂を捧げる習慣がありました。その日から数え、更に50日が経った時に、「七週の祭り」(出34:22, 申16:10)「刈り入れの祭り」(出23:16)と呼ばれるものがあります。この祭は、大麦の収穫の終わりを告げ、同時に小麦の収穫の始まりを告げています。
イエスは神の子、またユダヤ人として生まれ、当然ユダヤ教の伝統をよくご存知でした。過越の祭りの際に、ご自分の弟子たちと食卓を囲んだ記述が聖書にあります。過越の食事は、イエスが十字架につけられ亡くなられる前、生前弟子たちと最後に食事を取る場面でしたので、キリスト教では過越の祭の食事を「最後の晩餐」として理解しています。本日行われる主の晩餐式は、そのようなユダヤ教の伝統から違う形で受け継がれてきたものでもあります。
イエスはこの食事の後、捕らえられ、翌日十字架刑に処せられました。弟子たちは皆弱さや恐れの故にイエスを裏切り、安全な場所に逃げこみ、バラバラになってしまいました。今まで築き上げられた信仰の共同体が崩壊し始めたのです。先の見えない、希望すら感じられない暗いとき、イエスが復活なさって、弟子たちの前に現れました。40日にわたって彼らと一緒に生活し、神の国について話されました。共に食事の席に着き、弟子たちに大事なことを伝える様子が使徒言行録に描かれています。弟子達にとって共に食事を取ることは最近のことなのに、まるで遠い昔の事のように感じられたのでしょう。短な間、大切な先生を失ったという大変辛いことを経験したからです。そして、この前一緒に食事を取った時に話された言葉もつい思い出すことになるでしょう。イエスの十字架の苦難の前で、自分たちが裏切り、躓き、逃げ散ってしまうと予告されていました。「そんな話、もう二度と思い出したくないし、聞きたくもない。今度は何を話されるだろう」と恥ずかしい気持ちで、ドキドキしながら、イエスの話を待っていたのでしょう。すると「エルサレムから離れないで、父なる神の約束された聖霊を待ちなさい。あなた達は今度、エルサレムから地の果てまで私の証人として働きなさい」とイエスの強く優しい声が聞こえきました。失敗を繰り返してきた弱くちっぽけな人間、イエスを知らないと言った臆病者、そんな弟子たちには、やり直すチャンスと生きる使命を与えられる約束されました。その約束は、聖霊が降ることによって、証明され、果たされると、イエスが教えられます。聖霊降臨日と呼ばれる「ペンテコステ」の日は、聖霊が弟子達に、また私たちに神の愛に気づかせ、それに応答しようという思いを与えてくれる日なのです。
2、主の宣教命令
4月下旬から1ヶ月間、私たち教会CSの各クラスでは、新約聖書の「使徒言行録」を共に分かち合ってきました。使徒パウロを中心に、イエスキリストの弟子・使徒たちの伝道活動を紹介する部分を、使徒言行録の途中から読んでいますので、使徒パウロは伝道物語の主人公のように扱われる時があります。しかし実際使徒言行録の中心内容は、「使徒たちの諸行録」ではなく、「福音の伝播」です。復活の主の宣教命令(1:8)によって、神の国の福音がエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、地の果てローマにまで伝えられ、各地に教会が建設されていく様子が描かれています。ペンテコステは教会の誕生日とされているように、福音宣教の中心的な役割は、使徒パウロによってではなく、聖霊によって果たされたのです。「使徒言行録」によく出てくるキーワードは「聖霊」です。「皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した」(4:31)、「聖霊もこのことを証死しておられます」(5:32)、「ステファノが知恵と霊によって語る」(6:10)、「ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた」(8:17)「教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受けた」(9:31)「御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った」(10:44)「御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」(16:6)「パウロは霊に促されてエルサレムに行く」(20:22)「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさった」(20:28)など、聖霊は、「使徒言行録」だけでも50数回出てきました。キリストの使徒たちは、聖霊を待たなければ福音伝道の働きを始め、進めることができなかったように、聖霊なしに、私たちは、教会に仕え、奉仕することも、キリストの証人になって福音を伝えることもできません。聖霊こそが、歴史と現在の福音宣教の働きを担う主人公です。
3、隠された主人公とその働き
私たちは、聖霊に導かれ、聖霊を通して、ここに呼び集められた群れです。聖霊は目に見えないので、どう捉え理解すれば良いか分からないという方がいるかもしれません。先ほどお話しましたように、聖霊は、神様の愛に気づかせ、それに応答しようという思いを与えてくれる神です。それと同時に、聖霊は人を通しても働いています。2000年前に、「聖霊」が降りてくることによって人々が様々な国の言葉で語り出したように、聖霊は、違いを受け入れ、違いを愛する方です。当時イエスの聖霊に関する話を聞いた使徒たちは、こう質問しました。「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」と。しかしイエスは、「エルサレムばかりではなく、地の果てに至るまで」とおっしゃいました。使徒たちは、ユダヤ人、自分の国イスラエルは神の救いと祝福を受ける唯一の対象だと考えていました。しかし、イエス様は、全世界の全ての人々、あなたたちによっての異邦人にも同じ祝福を与えると語ったのです。弟子達は最初にこの話の意味を理解できなかったと思います。その後宣教活動を広めるの中で、様々な出会い、聖霊の導きの中で、少しずつ分かってきたでしょう。今、世界の教会は、神の御心、聖霊の働きを理解し、実践できているでしょうか。
昨年の5月、ペンテコステの出来事に思いを馳せるために、西南学院高校チャペルでは、生徒と先生が9つの言語で聖書を読みました。チャペル終了後に、聖書朗読されたうちの一人が私の近くに来て、消え入りそうな小さな声で心を打ち明けました。「両親の仕事の関係で幼い頃から日本で暮らしてきました。周りからは自分の出身国やアイデンティティについて様々な声かが聞こえます。しかし今日母語で聖書を読むことを通して初めて、自分が自分でいてよかったと思えました。」
先週の高校チャペルで、ある牧師の話を聞きました。その牧師が以前働いた教会に、ある日耳の聞こえないろう者のご夫婦が礼拝に参加して来られました。手話ができる方のいる教会に行くことを勧めたかったそうですが、自分の教会にしばらく通いたいとおっしゃったので、賛美歌の歌詞を説教の要旨を小さなスクリーンに映す方法、手話を学び手話通訳することなど、様々な工夫を重ね、共に礼拝を捧げました。少し時間が経ってから、お二人はこれからもここで信仰生活を送りたい、教会員になりたいという申し出がありました。「なぜ私たちの教会に」と聞かれた二人は、「この教会が私たちのために変わろうとしてくれたからです」と教会に留まり続ける理由を話されました。
もう一つの思い出話を話させてください。私は広島で働いたごろ、日本に派遣された外国人の技能自習生3の女性が教会にやって来ました。物流会社で働いて、日本語がほとんど話せない方達でした。幸い、私と同じ国の出身でしたので、なんとか色々フォローできました。しかし工場での労働はなかなか厳しいもので、身体的にも精神的にも耐え難いものでした。毎日ご飯を食べる時間がなく、朝4時から午後18時まで、重い荷物を一日中レンの上に運んで乗せていく、全身赤いあざができた彼女たちはある時期教会に来るたびに、いつも泣いていました。教会の日曜日の午後は青年たちの活動や会議があるので、忙しくフォローし切れない時もあります。しかしある時に、教会の方達に囲まれ、楽しそうに皆と筆談をしている彼女たちの姿を見ました。教会の皆さんは、泣いている彼女を慰めようとし、いつの間にか、筆談で、ある程度のコミュニケーションを彼女たちと取れるようになったのです。ある方は、毎週の週報の巻頭言をパソコンに打ち込み、翻訳機を使って翻訳したものを毎週彼女たちのために用意していました。「先生、だいたいでいいので、間違いがないかどうかを確認してもらえないか」と頼まれましたが、機械の翻訳でしたので、間違いや意味不明なものだらけでした。私はあえて完璧に修正せず、そのままの原稿を彼女たちに手渡します。この翻訳は私によるものではなく、教会の方が翻訳機を使って翻訳してくれたものだと伝えたかったからです。1年後、就労ビザが期間満了で、彼女たちは帰国することになりました。3人のうち二人が教会でバプテスマを受けました。帰る前に、彼女たちは私にこう言ったのです。「教会があるから、皆さんがいつも寄り添ってくれたから、1年間頑張ることができた。教会の皆さんと出会えて、本当に良かったです」と。私はこの話を聞いて、本当に嬉しかった。彼女たちは、あなたではなく、教会の皆さんと出会って良かったと言ったからです。
4、聖霊を待って、聖霊と共に
イエス様によって語られた言葉の中に、次のものがとても印象的です。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20b-21)、「この最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことです」(マタイ25:40)。聖霊様は、どこにいらっしゃって、どのように働いておられるでしょうか。私は、あの高校の生徒の話を聞いた時、ろう者の方が教会に留まり続けたいと決心された時、また技能自習生たちが「皆さんと出会って良かった」と幸せそうに告白時に、聖霊が生きておられ、聖霊が確かにここにおられると強く感じるのです。
私たちの周りに国籍や言語だけでなく、様々な違いを持つ他者が存在します。「あなたが大切だ」「あなたが生まれて良かった」と言える関係の中から、また互いに認め合い、支え合い、愛し合う関係性の中からこそ、聖霊を見い出すことができるのではないでしょうか。
ペンテコステは、一回的な出来事でも、キリスト教という宗教の範囲内にとどまる出来事でもありません。聖霊は、昔も今日も、教会の内でも外でも働いておられる「神」なのです。聖霊を信じて、聖霊とともに、キリストの愛を証していくことが、昔の使徒や宣教師をはじめ、今日の私たち、教会に与えられた使命ではないでしょうか。お祈りいたします。(劉雯竹)