先日の主の日はペンテコステ礼拝でした。聖霊の注ぎと教会の誕生を祝う礼拝です。この礼拝を境にして教会カレンダーが新しくなり、今日は三位一体の神の主日となります。新約聖書に証言されている主イエスの物語は父なる神が聖霊によってみ子を派遣してくださったものとして理解されます。み子イエス・キリストの視点に立てば、主イエスは父なる神の支配、神の国の到来を、聖霊を通して宣教されました。そこで、今朝は、私たちが信じ、告白しているのは三位一体の神であることを取り上げたいと思います。私の神学者としての専門分野は三位一体論ですが、たぶん、直接三位一体の神について説教するのは牧師になって初めてのことです。神は父と子と聖霊の三でありながら一である、一でありながら三の関係存在であることを「理屈」で考えることは、難しいからです。基本的に、三位一体の神は、賛美と祝福の源として人間の理解を超えた神なのです。ですから、伝統的礼拝では聖書が朗読されるたびに、それは三位一体の神であることを示す賛美歌が歌われ、最後に三位一体の神を賛美する「頌栄」を歌い、三位一体の神からの祝祷で礼拝を終え、この世界へと派遣されるわけです。たぶん三位一体の神は説教というより頌栄・賛美の文脈でなされるのが相応しいのでしょう。
神は、決して完全に理解できないとはいえ、孤独で、孤立したお方ではなく、ご自分において、父と子と聖霊の交わりであり、三者の関係の中にあり、愛といのちのお方であるのです。そして実を言うと、三位一体の神を信じることは、私たちの日常生活の葛藤と喜びそのものに触れる問題なのです。理屈では伝えにくいので、三位一体の神について、皆様の心の琴線にふれるようなメッセージを語れるか不安ですが、あえて、三位一体の神理解に挑戦してみます。
1.み子イエス・キリスト:三位一体の神信仰の出発点であり内容である
東福岡教会の主日礼拝では礼拝の終わりとして、そして、そこからそれぞれの持ち場に出発する派遣式として、「祝祷」をしています。私が牧師をしていた栗ヶ沢教会には毎週、祝祷をメモしていたおばあさんがおりました。祝祷によって新しい一週間へと押し出される力を与えられるとのことでした。[別に私の祝祷に効果があるのではなく、今朝一緒に読みました、IIコリント13:13に派遣の言葉を加え、私自身への祝福がもれないように、「あなたがた」ではなく「私たち」にと変えているだけです。その祝福の内容が良いのか、手のひらから何か見えないものが出ているように感じなのか良くわかりません。]「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがた一同と共にあるように。」ここで注目して欲しいことは、「主イエス・キリスト」、つまり、み子である神が最初に来ていることです。ヨハネ1:18では次のように言われています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、(つまりイエス・キリスト)この方が神を示されたのである。」私たちは「神」というといろいろな神をイメージしますが、イエス・キリストを4つの福音書から離れて勝手に想像することはできません。抽象的な神の名によって戦争しようとは言えるかもしれませんが、イエスの名によって戦争しろとは言えないでしょう。主イエスは憐れみ深く、神と人をこよなく大切にされたお方ですから。こうして、神を知る手立てというか三位一体の神信仰の出発点はみ子イエス・キリストです。皆さん、新生讃美歌の頌栄には、一つだけ毛色が変わっている頌栄があることに気づいていますか? 673です。[松見俊が翻訳したからではないのです。] この頌栄だけが、父、み子、聖霊ではなく、「救い主み子」から始まっているのです。[まあ、私の連れ合いもこの違いも、私が翻訳したことも知らなかったというので、皆さんがこんなことを意識化できないのは無理もないですね。ともかく、三位一体の神信仰の出発点はみ子イエス・キリストであることをしっかりと確認しておきましょう。] イエス様によって現された神の愛の深みと広がりは何か偶然の出来事でもないし、神の意志でそうされた、気まぐれでそうされたのではなく、神の存在そのものが、愛することの出来るお方、愛そのものであると考えるのが三位一体の神なのです。理屈で表わすことが難しいので頌栄で歌うだけではなく、神を、溢れる愛のお方であるとする三位一体の神理解は、ですから、溢れる感謝、喜びの事柄なのです。
2.バプテスマの定式の変化:み子の名から三位一体の神の名へ
ついでにもう一つ知っておいて欲しいことは、バプテスマ式においてどのような神を呼ぶかということです。使徒言行録2:38によると最初のエルサレム教会は「イエス・キリストの名によるバプテスマ(baptisthētō epi tō onomati Iēsou Christou)」を行っていたらしいです。しかし皆さん、良く知っておられるマタイ28:19では「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けながら」(baptizontes eis to onoma tou patros, kai tou Huiou kai tou Hagiou Pneumatos)と言われています。「父と子と聖霊の名へとバプテスマを授けつつ」となっておりますが、しかも、「名」は「一」、単数形です。こうして新約聖書自身の中に、三位一体の神へ信仰の「芽生え」が存在していると言ってよいでしょう。バプテスマは「み子」の名においてなされるものから、父と子と聖霊の名に向かってなされるものへと変化し、豊かになっているわけです。こうして、新約聖書の中には、父とみ子と聖霊が並んで登場する「三対形式」(三点セット!?)が存在し、それは三位一体の神信仰として展開される「萌芽」「兆し」であるといえます。]
3.主イエスとは誰であったのか?
では、新約聖書に描かれているイエス様ってどんな方だったのでしょう。道徳的、倫理的に素晴らしい人でした。しかし、単なる良い道徳の教師でしょうか?貧しい人に慈善活動をした人でしょうか?あるいはちょっとした病気の癒しができた人だったのでしょうか?平和を愛する穏やかな人でしたでしょうか?革命家に祀り上げられる危険性を持った急進派であったのでしょうか?イエス様はどのレッテルを貼ってもイエス様であったと思います。あらゆるレッテルを超えたお方です。イエス様はイエス様なのです。しかし、そうも言えないので当時の人々はイエス様の独自性を「神の一人子」であり、神が「肉体を取って来られた」方、神に等しいお方という言葉でその独自性を言い現わしたのでした。しかし、これは一大事でした。もしイエス様が神と等しいお方であったとしたら、イエス様が「父よ」「アッバ・父よ」と呼ばれた神とどのような関係になるのか、キリスト教信仰もユダヤ教の信仰を受け継いだ唯一神信仰ではないのかという問題が生れるのです。この問題は、イエス・キリストは100パーセント神の本質に与り、100パーセント人間の本質に与っているというニカイア・コンスタンチノポリス信条(325年、381年)の成立まで約300年間、議論されてきました。聖霊の独自性も4世紀に確立されました。それでも、論争はさらに続き、451年カルケドン信条となるわけです。父なる神とみ子イエス様を結び、神と私たちを結ぶ「絆」である聖霊も神性(神の本質)を持つと告白されるわけです。こうして、ユダヤ教の唯一神信仰、ギリシヤ・ローマ哲学の中で磨かれた唯一の神と新約聖書が証しする父と子と聖霊の信仰の豊かさとの折り合いがつくためには長い歴史がかかったわけです。こういう話になるので、三位一体の神についての説教はしたくないのがお判りでしょう。まあ、一つの結論としては、新約聖書においてはいまだ三位一体論は確立していませんが、主イエスとは、神を父と子と聖霊として現わした神のみ子であると告白されました。そして、このイエス・キリストの業を可能とする神を考えると、三位一体の神となると考えられ、三位一体の神を語ることの内実は十字架につけられ、よみがえらされたイエス様を語ることなのです。また、今日では父と子(イエスは多分男性でしょう)と聖霊では、神の女性性が欠如しているのではないかと批判されています。ユングという精神心理学者は、女性であることを加えて四位一体にすべきであると言いますが、聖書証言と違ってくるので、私は必ずしもユングには賛同しません。私は、聖霊のヘブライ語は女性名詞であり、いのちと関係を生み出す女性としての霊を考えています。大切なことは三位一体の神が父権主義的、父と子と聖霊の序列を正当化せず、また、女性を排除しないことです。
4.新来者、求道者には三位一体の神が障壁・躓きになる?
私は伝道者として献身して56年になりますが、人と出会って良く言われます。「神は漠然と信じているけれど、イエスが神となるとどうもねえ。キリスト教は他の宗教を認めないのですかね?」。あるいは、逆に、このように尋ねる人もいます。「イエスの愛の教えは素晴らしいけれど、神を信じるとなるとどうもねえ、いまどき、神を信じるなどというと迷信のようですが…」。このような二通りの障壁というか躓きがあると感じてきました。分かりにくい三位一体の神をどのように伝えたらよいのでしょうか。どのように語ったらよいのでしょうか?
5.三者合体して地球を救う?
ある時、幼児教育に興味のあった玉木功先生に尋ねたことがありました。「幼い子らに三位一体の神をどのように説明したらよいのでしょう!」玉木先生が言われました。「簡単さ、赤レンジャー、青レンジャー、桃レンジャー、三人合体して敵に向かい、弱く、いじめられている人たちを救うんだ!」という訳です。実際は、あと黒レンジャーと黄レンジャーがいて5レンジャーなのです。まあ女性が桃色、桃色が女性であるという在り来たりの考えに抵抗を覚えますが、昨今のゲームでも同じように合体して敵と闘ったり、一人になって旅をしたりするわけです。これは下手をすると神が三人いる粗野な三神論になりますが、女性を取り入れたこのアニメ世界は男性中心のキリスト教よりは進んでいるのかも知れません。最近、ユルゲン・モルトマンという人は、東方教会の絵画を示しながら、首を傾けながら机に座っている三者が一致協力して協力し、働く三位一体の神の「社会的比喩」を提唱しています。そして、抽象的な、孤立した「一」から始めるのではなく、聖書が証言する、み子、父、聖霊という具体的歴史から出発して、終わりの日の希望として神の唯一性が成就すると考えたらどうだろうかと提案しています。三者が一体となって協力して悪と戦う!なかなか面白い提案であると思います。
6.唯一の神の三つの現われ?
従来の主流の三位一体論は、「神は当然一に決まっているから、一人の神が、父、子、聖霊という三つの形、現われ方、あるいは仮面をかぶってご自身を繰り返す」のであるというものです。そして、「人間的・精神的比喩」を用いて説明します。神と人間との関係で一番似ているのは人間の精神であるとアウグスチヌスは言いました。人間の精神は一つですが、「愛」と「記憶」と「意志」の三極の構造を持っていると言いました。そして、人間の愛の構造は、「愛する者」(愛の主体である「私」)と「愛される者」(愛の対象である「あなた」)、そして二つを結ぶ「愛」、「私たち」)であると言います。ヨハネ福音書は聖霊を明確に「父」と「子」と並ぶ「弁護者」(傍らに呼び出された者)であると証言していますが(13:15‐20)、同時に「愛」を強調している福音書です。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにして下さい。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」(17:21)、また、「神は愛だからです。…愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(Iヨハネ4:8、11)。
7.異質な他者を愛すること
もう充分皆様の頭が混乱したでしょうか。最後に三位一体の神と私たちの日常生活との関連についてお話して今週生きる皆さんへのメッセージとします。私たちが出会う他者がまったく異質な他者であれば交わり、関係も結ぶことはできません。「物別れ・絶縁」です。しかし、他者が全く同じであれば、その人と一体化して「私」が他者に吸収されてしまえば、真の対話は成り立ちません。異質なものと出会って、その違いを受け留め、しかも、自分自身というか個性を失わずに、互いに尊厳を失わずに、交わりと関係の中で生きることが私たちの苦しいけれど、嬉しい課題なのです。嬉しいけれど、苦しい課題です。このような「愛着」感「一体感」と距離感のある微妙な関係性が、親と子、妻と夫、友人同士、牧師と教会員たち、そして「クニ」と「クニ」、民族と民族との間で成り立っていれば幸いです。神は三位一体の神であるので、わたしたちもその神に対応していないと適切に生きることはできません。祈りましょう!
祈り
主イエス・キリストが「父」と呼んだ神よ、聖霊においてあなたに向かっていのります。あなたの救いと愛のみ業だけではなく、この世界は、水は寒いと氷として固体となり、常温では液体であり、沸騰すると蒸気という気体になり、しかも、同じH2Oです。被造物はあなたの不思議さを讃美しています。それにもかかわらず、人間は醜い戦いを止めようとしません。主よ、私たちを憐れんで下さい。主よ、速やかに来て下さい。特に、三位一体の神信仰が女性を排除する父権的なものにならないように導いて下さい。イエス様の名によって祈ります。アーメン! (松見俊)