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2022.6.19 「キリストの助けを必要とする者」(全文)  マタイによる福音書25:31-46

1:  行いによって救われるのか

 今日の箇所を読むとき、一見、その内容はとても分かりやすいものに見えます。それは、この箇所の内容を一言でいうと「小さい者を助けた者は永遠の命を受け、そうでない者は永遠の罰を受ける」ということです。世の終わりの時がくるとき、つまり、人間の一生、人生が神様の前に差し出されるときに、何を基準とされるのか。それは富や名声ではなく、また大きな業績でもない。ただ小さな者のために生きたかどうかということが問われるということです。

 もう少し読み込むと・・・32節に「すべての国の民」とあるように、もはやキリスト者、イエス・キリストを信じているかどうかということも関係なく、ただ、苦しみの中にある人を助けたか、愛の業に生きていることができているのか・・・ということが問われる、とも読みとることができるのです。ここから、最終的に信仰を持っているかどうかが、問われるのではないとなること自体は、神様の愛の広さ、その恵みの自由という意味では慰め深いものともなります。ただ、この聖書の箇所を、「小さな善行によって救いを得る」と読み取るならば、このような話は聖書だけではなく、様々なところに記されている話となるでしょう。それこそ、古代エジプトから、日本の昔話まで、「良いことをすれば救われる」という話は、あらゆるところにあるのです。

 また、もし、そのような良いことをすることが、救いの基準となるならば、・・・皆さんは自分の生活を振り返ってみるときに、どのように思うでしょうか。自分はいつも、空腹の人、のどを渇いている人、宿に困っている人、裸の人、病気の人、牢屋に入れられている人のために生きていると言い切ることができるでしょうか。むしろ、そのことを知りながらも、通り過ぎてしまっていると、または助けなければ・・・と思いながらも、それができないといった葛藤に生きていることがあるのではないでしょうか。

 

 キリスト教における救いとは、そのような「人間の行いによって救いを得る」ということではないのです。聖書はではこのように教えます。【なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。】(ローマ3:28)聖書は、「律法」ということ、つまり人間の行いによって、義とされるのではなく、ただ神様の一方的な愛によって、人間に救いが向けられている。その救いを信じる信仰によって義とされると教えるのです。もちろん神様の前にあって正しく生きること、生きていこうとすることはとても大切なことです。ただ、キリスト教では、そのような人間の行いが救いの基準ではないということです。キリスト教では、人間の行いではなく、神様の恵みによって救いを頂いていると教えます。この神様の愛を頂き、そのうえで、神様の愛を頂いた者として生きていく者とされるのです。

 

2:  最も小さな者とは誰なのか

 さて、それでは今日の箇所は、どのように読み取っていくことができるのでしょうか。そのカギとして、今日はまず、この話の中で登場する、王様が「わたしの兄弟」とした、「最も小さな者」とは誰のことなのかということを見ていきたいと思います。この時、「最も小さな者」とされているのは・・・これまでの一つの解釈として、神様の約束の民イスラエルか、イエスの弟子、そしてそれはキリスト者となっていくと考えられてきました。そして、「最も小さな者」をキリスト者とし、「すべての国の民」は、「異邦人」「信仰を持っていない人」という意味の言葉とされたのです。そのため、これまで、この話は「神様の前に集められたすべての国の民」、つまり、「信仰を持っていない人々」が、「最も小さな者」、つまり、「信仰を持つ者」をもてなしたかどうか、という話にとして解釈されてきたのです。

マタイによる福音書の10章では、イエス様のこのような言葉があります。【「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」】(マタイ10:40-42)このように10章では確かに「小さな者」とは「イエス様の弟子」とされています。ただ、このように読み方を推し進めることは、キリスト者が自分たちだけを中心とした、偏った考え方となってしまうのではないかと不安と疑問を持つのです。この時のイエス様の言葉を理解するためには、当時のイエス・キリストを信じる者の立場、状態を見る必要があります。この時、イエス様の弟子たち、またマタイの教会のキリスト者の立場は、命の危険な状態にありました。この後26章からイエス様の十字架への道となっていきます。イエス様はイスカリオテのユダに裏切られ、人々から侮辱され、十字架刑という、一番苦しい形で殺されていくのです。この中ではもちろん十字架で殺された者の弟子たちにも危険が迫っていたのです。またこの福音書を読む、マタイの教会では大きな迫害の中にあり、多くの人々が捕まえられて、殺されたという状況にあったのです。まさにこの時のキリスト者は「小さい者」「命が危険にさらされている」「いつ捕えらえれ、殺されるかわからない」という立場にありました。だからこそ、そのような者を助ける人は幸いであると、解釈されてきたのです。

 

それに対して、現代はどのような状況にあるでしょうか。現代は、キリスト者だけが命の危険にあるわけではない、まさにこの世界が暗闇に包まれているのです。人が人を傷つけ合い、憎しみ合い、殺し合う。しかもその憎しみは、とどまることもなく、喜び、平和へと導かれるのではなく、むしろ憎しみはお互いが傷つけあう中で、益々と増えていき、その傷もどんどんと深まっている。そのような世界にあるのです。それこそ、キリスト者が・・・というよりも、すべての人間が命の危険にさらされている。すべての人間が、命の尊さを見失ってしまっているのです。このような中、今、私たちは、この神様の御言葉をどのように読み取ることができるのでしょうか。もう少し、読み込むならば、この「小さな者」とは、キリストが「兄弟」とする者であり、それは、苦難の中にある、すべての人間に向けられた言葉として読み取ることができるのです。この「小ささ」を考えると、それは誰かの助けを必要とする者であり、助けがなければ生きていけない者。そしてそれはイエス・キリストを必要としている者であり、イエス・キリストがいなければ生きていけない者、そのような「弱く」「小さく」「惨めな者」と見ることができるのです。そして、それはすべての人間のことなのです。イエス・キリストは、そのような者に「兄弟」として呼んでくださっているのです。

 

3:  キリストの助けを必要とする

 私たちは小さな者なのです。ここにあるように、私たちは肉体的に満たされていたとしても、その魂は、今も飢えた者であり、のどの乾いたもの、裸であり、病気にある者。そのように、心の中には、満たされない思い、孤独感、寂しさがあるのではないでしょうか。それが、私たち人間の本当の姿なのです。皆さんは、今、イエス・キリストの助けを必要としているでしょうか。自分の人生において、イエス・キリストに支えてほしいとどれほど願っているでしょうか。私たちには、助けが必要なのです。そのことを忘れてしまっていないでしょうか。先ほども言いましたが、この後26章からは、イエス・キリストが十字架へ向かう物語が始まります。イエス様は【「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」】(マタイ26:2)と言われたのです。

イエス・キリストの十字架。それは、神が人となり、「最も小さな者」となられた出来事なのです。イエス・キリストは、最も小さな者として、この世に来られたのです。このことを通して、イエス様は、どこまでも私たちと共に生きる方となられました。私たちが生きる中で、どのような時も、それこそ順風満帆な時も、困難な時も、主イエス・キリストは、共にいてくださる。それはこの十字架という出来事によって、イエス・キリストが「小さな者」となられたことによって、実現されたのです。私たちは、「小さな者」このイエス・キリストの助け、主イエスが共にいてくださるということを必要とする者なのです。このことを忘れずに、覚えていきたいと思います。

 

4:  感謝と喜びの内に生きる

今日の箇所において、右側にされた者、正しい人とされた者、最も小さい者一人を助けた者は、自分の行為の大きさに気が付いていませんでした。この人は気が付かなかったのです。それほどにこの人にとっては当たり前のことをしただけだったのです。何かをしなければならないと思ったのでもない。ただただ生きていた。その中で、この人は、他者のために生きていたのです。どうしてそのようなことができたのでしょうか。それは、それこそ、この人こそ、自分は小さい者であると覚え、キリストの助けを必要とする者。そして、その助けを頂いている人だったからなのです。

 

キリストを必要とし、実際に、助けて頂く時、そこに、神様の恵み、神様の愛を受けるのです。そのとき、心に生まれるのは、「感謝」と「喜び」です。神様の愛によって、感謝と喜びが与えられたのです。この感謝と喜びから主の恵みを頂いて生きていく中で、この人は「自分がしなければならない」という思いから解放されていたのです。この姿こそ、本当の意味で自由に生きていること、自由のうちに愛する者とされている姿だと思うのです。私たちは、何よりも、まず、自分が、イエス・キリストによって生かされているということ。それほど自分は弱い者であること、それでも、主が共にいて助けてくださっていることを感謝したいと思います。私たちは自分の力だけでは生きていけない、小さな者なのです。それでも、主は、私たちを愛してくださっている。この愛を感謝して生きていきたい。神様の愛に生きる者とされていきたいと思います。(笠井元)