1: 行いによって救われるのか
今日の箇所は一見とても分かりやすいものに見えます。人間の人生が神様の前に差し出されるときに、何を基準とされ裁かれるのか。それは小さな者のために生きたか、苦しみの中にある人を助けたか、愛の業に生きてきたかが問われていると読み取ることがあります。
しかし、キリスト教は人間の行いによって救いを得ると教えてはいないのです。聖書は神様の一方的な愛によって人間に救いが向けられている。その救いを信じる信仰によって義とされると教えます。神様の愛を頂き、神様の愛を頂いた者として生きていくのです。
2: 最も小さな者とは誰なのか
「最も小さな者」とは誰のことなのでしょうか。一つの解釈としてイスラエル、イエスの弟子、キリスト者と考えられてきました。この時のキリスト者は、いつ捕えられ、殺されるかわからないという確かに小さい立場にありました。そのためそのような者を助ける人は幸いであるとされたのです。ただ、キリスト者がこの読み方を推し進めることは、自分たちだけを中心とした偏った考え方となってしまいます。現代はキリスト者だけが命の危険にあるわけではありません。すべての人間が命の危険にさらされているのです。「小さい者」とはイエス・キリストを必要としている者であり、イエス・キリストがいなければ生きていけない者です。そしてそれはすべての人間のことなのです。
3: キリストの助けを必要とする
私たちは小さな者です。私たちには助けが必要なのです。この後26章からは、イエス・キリストが十字架へ向かう物語が始まります。イエス・キリストは十字架によって「最も小さな者」となられたのです。イエス・キリストは、どこまでも私たちと共に生きる方となられました。私たちが生きる中でイエス・キリストはいつも共にいてくださる。それはイエス・キリストが「最も小さな者」となられたことによって実現されたのです。
最も小さい者一人を助けた者は、自分の行為の大きさに気が付いていませんでした。この人はただ生きていたのです。その中で他者のために生きていたのです。どうしてそのようなことができたのでしょうか。この人は、自分は小さい者でありキリストの助けを必要とし、キリストの助けを頂いている人だったからです。
キリストを必要とするとき神様の愛を受けます。心に「感謝」と「喜び」が与えられます。感謝と喜びから主の恵みを頂いて生きるとき、「しなければならない」という思いから解放されていくのです。私たちは主が共にいて助けてくださっていることを感謝しましょう。(笠井元)