1: 愛がなければ
コリントの信徒への手紙の基本的なテーマとして、教会の一致を目的としていると読むことができます。当時のコリントの教会は1章からあるように派閥争いが起こっていました。
また富んでいる者が、自分たちの賜物を誇り、貧しい者たちをないがしろにし、8章では「偶像に供えられた肉」を食べることから、富を持ち知識を持つ者が、貧しく知識を持たない者を躓かせていることを指摘しています。(Ⅰコリント8:9)また11章においては貧しい者たちが虐げられていることを語っています。(Ⅰコリント11:21)
13章1~3節において「異言」「預言」「神秘(奇跡)」「知識」「信仰」「奉仕」について語られます。これらは12章8節からの箇所に対応したものとなっています。(Ⅰコリント12:8-10)。それぞれの賜物は、教会を造り上げていく大切な賜物です。しかし、コリントの教会ではこれらをもって教会を造り上げるのではなく、むしろ教会を分裂させてしまったのでした。そこには、愛がなかったのです。
私たちは今一度、神様に愛されている恵み、自分の信仰、隣人を愛する愛について、神様からの愛を頂いた者として、何のために生かされているのか、隣人と共に生きているのか…問い直したいと思います。
2: 愛は忍耐強い
4節から愛が主語となり、「愛は・・・」と語ります。ここでは15個の愛の働きの側面が語られています。「愛は忍耐強い」のです。主語となる「愛」は「キリスト」と置き換えてもよいでしょう。「キリストは忍耐強い」「キリストは情け深い・・・」等々です。キリストは愛であり、愛はキリストです。
パウロは自分がキリストの憐れみのうちに救い出されたことから、キリストの忍耐を見ていたのでしょう。パウロは【わたしはあなたがたに最高の道を教えます。】(Ⅰコリント12:31)とし、「最高の道」として、愛の道、忍耐の道を教えるのです。キリストにつながり続ける忍耐の道は最高の道なのです。
コリントの人々は誇り高ぶっていました。パウロが教える愛の道、忍耐の道は、コリントの人々が求めていたものとは真逆の道で、へりくだり、低く降っていく道、十字架の道となるのです。
私たちは自分の能力を誇り、高ぶる道を選んでしまいます。キリストに従う道としてへりくだり仕える道を歩き出したいと思います。(マルコ8:34-35)
3: 愛はいつまでも残る
Ⅰコリント13:8~13
信仰、希望、愛はいつまでも残ると言います。これらは、神様と人間との関係のうちにあるものです。神様と人間の関係はいつまでも残るのです。神様が私たちに関わって下さる、神様からの関係はなくならないのです。
神様が差し出してくださっている神様の御手を信じて受けることが信仰であり、私たちがこの関係を信じるとき、希望が生まれ、愛の関係が始まっていくのです。
【13:12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。】(Ⅰコリント13:12)
私たちは、今は神様の愛の一部しか知らないのです。神様の愛は、私たちの考えを超える深い愛なのです。
イエス・キリストの十字架によって表された神様の愛を、私たちはほんの一部しか理解していない。神の子イエス・キリストが人間となり、十字架の上で罪人として死なれたということは偉大なことなのです。私たちを愛してくださっている神様の愛の大きさを再確認したいと思います。(笠井元)