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2022.6.26 「神の御業が道を整える」(全文)  ルカによる福音書3:1-6

1:  神学校週間を覚えて

今日から神学校週間となります。今年度は私たちの教会には研修神学生はこられていませんが、教会として神学校を支えること、祈ることの大切さを共に覚えましょう。バプテストには、西南学院大学神学部、九州バプテスト神学校、東京バプテスト神学校として三つの神学校があります。現在、西南学院大学の神学生は7名、九州バプテスト神学校の神学生は9名、東京バプテスト神学校は8名となっています。是非、皆さん、神様の御業を担うための働き手の学びが祝福されるように、また新しい働き手が与えられますように、お祈りしましょう。

 私自身の話となりますが、私は、東京基督教大学という神学校を2002年に卒業し、その1年後の2003年に西南学院大学の神学部に入学しました。私は、2002年から2003年の間に1年間、牧師になるかどうか、いろいろと考えさせられた1年がありました。それこそ、最初に通った東京基督教大学での生活は、今日の御言葉にあるように、「曲がった道」「でこぼこの道」でした。そのような道を歩む中、牧師として歩むことができるのか、悩まされていたのです。その中で、自分には牧師になるような資格はないのではないかとも考えましたし、別の職業で働き、教会を支えるという道も、考えました。そのような中で、自分が牧師になれるのか、そのような資格があるのか、当時の教会の牧師先生に相談したことがありました。そのときに先生は、私が、最初の神学校に行くときに、教会の推薦が必要だったのですが、その時点で、私を推薦するかどうかで、教会の皆さんで話し合ったときのことを教えてくれたのです。能力的なこと、信仰のこと、人間性などなど、色々と問題がある私について話し合う中で、私を推薦することは不安があるという意見もあったそうです。ただ、最終的に、それでも教会が、自分たちが「私」のことを支えていこうという決断をして、推薦したということでした。私は、このことを聞いて、自分が祈られていること、支えられているということを、もう一度教えられました。そして、自分が牧師になることを決断し、西南学院大学に進学したのです。

 わたしたちの教会では、現在は、私たちの教会から推薦している神学生がいるわけでもありませんし、神学生が研修に来ているわけではありません。それでも、だからこそ、私たちは、神学校で学ぶ方々のために、より一層強く祈っていきたいと思います。祈り、支えていきたい。そのような思いを持ち続けていきたいと思うのです。

 

2:  歴史の中に起こされた福音

 さて、今日の箇所を見ていきたいと思いますが、ここではまず、何人かの人の名前が出てきます。少し、この人々について説明をしていきたいと思います。まず皇帝ティベリウスは、ローマの初代皇帝アウグストゥス・オクタビアヌスに続く、二番目の皇帝となります。皇帝ティベリウスは、紀元14年から紀元37年までローマを治めたとされ、治世15年となると、紀元28年~29年頃を指すとされます。また、ポンティオ・ピラトは、紀元26年~36年の間、サマリアを含めたユダヤの総督であり、このポンティオ・ピラトが、ローマ帝国の統治者、ユダヤの総督として、イエス様に十字架の判決を下したのです。また、ガリラヤの領主ヘロデとは、イエス様の誕生の時に登場し、二歳以下の男子を皆殺しにしたとされるヘロデ大王の子ども、ヘロデ・アンティパスのことで、このヘロデ・アンティパスが、バプテスマのヨハネの死刑を命令し、また、イエス様を尋問しピラトに送り返し、十字架につけるために加担した一人でもあります。ヘロデ・アンティパスは、紀元前4年~39年までガリラヤの領主でありました。また、このヘロデの兄弟フィリポとは、ヘロデ・アンティパスの義兄弟であり、リサニアという人物の詳細は不明となります。

またここでは大祭司として、アンナスとカイアファという大祭司が登場します。アンナスが大祭司を務めていたのは、紀元6年~15年であり、この時はすでに、大祭司を退いていたのです。ただその影響力から、人々は、アンナスが死ぬまで大祭司とし、その義理の息子がカイアファと二人の大祭司がいたことになっていたのです。ヨハネによる福音書ではイエス様の裁判の時に、この二人の大祭司が登場します。そして、この二人がイエス様を殺す計画をし、最高法院で尋問し、ピラトに渡した二人となるのです。

ルカは、この箇所で、まずこれらの人々の名前を挙げ、時代の設定をしたのです。この書き方は当時の書き方としては特に珍しい書き方ではありませんでした。この時のルカの意図は、この後記されているバプテスマのヨハネ、そしてイエス・キリストの働き、そしてその十字架と復活という出来事が確かに、この世の歴史の中で、私たちが生きる日々の生活を連ねた、この世界の歴史において起こされた出来事であることを表しているのです。イエス・キリストによる神様の福音の出来事は、「むかしむかし、あるところで」といったあやふやな昔話ではないのです。私たちが生きるこの世界の歴史の出来事として起こされたのです。それこそ、この世界を創造し、時間を創造し、空間を創造された方、神の御子イエス・キリストが、確かにこの世界に来られた。人間としての肉体を持ち、私たちが生きる時間、空間に生きてくださった。自らが創られたこの世界に、一つの被造物として、この世に生きてくださった。イエス・キリストは、確かにこの世界の歴史に生きてくださったのです。

 

3:  荒野とは

 今日の箇所において、ザカリアの子ヨハネが登場します。これがバプテスマのヨハネとなります。このバプテスマのヨハネは、罪の赦しのための悔い改めを語り、バプテスマを行ったのでした。このバプテスマのヨハネは、イエス・キリストの福音の出来事の道を整える者として、登場したのです。ヨハネは荒野に登場しました。ここで言う「荒野」には、いくつかの意味があります。その一つとして、荒野は、生きることが試される場所、何も頼るものがない、虚無と孤独と絶望の地としての意味があります。ローマの人々は、「荒野」を「生物が死滅した土地」という意味の言葉で呼び、そこは生きることのできない場所としていたのです。この後、イエス様は荒野、つまり虚無と孤独と絶望の地で、悪魔からの誘惑を受けられたのでもありました。 

そして、もう一つの意味として、荒野は、出エジプトというイスラエルの民が神様の御業によって、歩み続けた地でもあります。イスラエルの民は、エジプトにおいて奴隷の民とされていました。神様はこのイスラエルの民を憐まれ、奴隷から解放されていったのです。この解放されたイスラエルが歩んだ地。それが荒野です。イスラエルの民は、奴隷という身分から解放され、荒野を40年もの間歩いたのでした。その道は、険しく、イスラエルの民は何度も神様に不平不満をぶつけ、救い主であるはずの神様の御心から離れてしまったのです。同時に、イスラエルの民は、この荒野で、神様と出会い、神様との契約を受けていくのです。

荒野とは、まさに神様と向き合う苦難の時、そして同時にその苦難の中で、神様の救いの御業を受けて、新しく歩みだす救いへの出発の場所というところと言うこともできるでしょう。バプテスマのヨハネは、この荒野において、神の御言葉を受けて、罪の赦しを得るための悔い改めを語ったのでした。それはまさに、絶望する中、不安と混乱にある中で、神様による救いの御業を求めるための道です。

 

4:  困難の中でこそ神に頼る

 私たちは、普段生きている時に、いつも神様の救いの御業を求めているでしょうか。「困った時の神頼み」とあるように、どちらかと言えば、困難の中、それこそ絶望の中に陥れられるときに、私たちは神様を必要とします。このことをキルケゴールは、「人間の目が絶望の暗闇しか見えないところで、信仰は神を見る」と言いました。またルターも「絶望したとき、そこから神様の救いが始まる」と言いました。神様はいつも私たちに手をさしのべてくださっています。しかし、普段は、その神様の救いの手に、私たちが必要としない。手を差し出さないのではないでしょうか。荒野の地は、人間的に見れば絶望の地となりますが、同時にこの地は、神の救いに目を向ける地とも言うことが出来るのです。

現在、私たちの生きるこの世界は、混乱の中にあり、不安と絶望、つまり荒野を生きるイスラエルの民のような状態にあります。ロシアとウクライナの戦争は、終わりが見えないまま、続いています。しかも、人々の意識は、その悲惨な状態、日々多くの人々が殺されているにも関わらず、少しずつ離れてしまっている。むしろ自分たちの経済について、物価の高騰について、または選挙についての方が優先されてきているのです。先日、岸田政権の評価についてのニュースがありました。岸田政権の物価上昇に対する評価は6割以上の人が「評価しない」としておきながら、軍事費の増加については多くの人が賛同しているというニュースでした。それこそ、年金は減少し、物価も高騰している。それでも人々は、軍事費を増加することを認めているということです。

ロシアとウクライナの戦争から人々が学んでいることは、戦争の悲惨さ、「このようなことはしてはいけない」ということではないということです。むしろ「他者を傷つけてでも、自分たちはこのような悲惨な目にあわない方が良い」ということ、「他者を絶望に陥れてでも、自分たちの生活は確保したい」ということです。軍備を整える、武器を持つとはそういうことなのです。今、私たちは、困難の中、神様を求めていないのです。不安の中、それでも神様に救いを求めていないのです。これほど絶望的なことはないでしょう。今こそ、神様に頼らなければならないという時、人間は神様に目を向けることも、神様に不満を言うのでもなく、まだ、「力」と「富」を求め、頼っているのです。

 

 バプテスマのヨハネは、このような絶望する中、不安と混乱にある中で、神の御言葉を受けて、罪の赦しを得るための悔い改めを語ったのでした。神様による救いの御業を求めるように叫んだのでした。私たちは困難に向き合うとき、つまり、荒野の地にある時、自分ではもはやどうすることもできないと思うときにこそ、神様に目を向ける者とされていきたい。神様に歩みだす道を見出していきたいと思うのです。絶望する時、生きる意味を見失ったときに、自分の力を捨て、ただ神様に委ねる、神様の御業を信じるという道を歩みだしていきたいと思うのです。

 

4:  整えられる道 主が共におられる

 バプテスマのヨハネはこの荒野で、悔い改めを語り、神様に目を向けることを叫んだのです。ここでは、このことをイザヤ書の言葉を引用して語ります。【「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」】(ルカ3:4-6

この言葉は、イザヤ書40章3~4節の引用とされます。【呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。】(イザヤ40:3-4

聖書は【主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らにな】ると教えます。悔い改めとは、曲がった道、でこぼこの道をどうにかして、自分の力で歩んでいくことではなく、神様が曲がった道をまっすぐにされること、神様がでこぼこの道を平らにしてくださることを受け入れていくことなのです。イザヤ書では42章においてこのようにも語ります。【目の見えない人を導いて知らない道を行かせ、通ったことのない道を歩かせる。行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐにする。わたしはこれらのことを成就させ、見捨てることはない。】(イザヤ42:16)ここでは、目の見えない人を神様が導き、それこそ、知らない道、通ったことのない道を歩かせると言うのです。そして、神様が曲がった道をまっすぐにしてくださる、闇を光に変えてくださると語るのです。

 私たちの人生は、曲がった道、でこぼこの道ばかりです。最初にお話ししましたが、私も、牧師になるまで、もちろん牧師になっても、今も、でこぼこ道ばかりです。そして、私たちはそのような道を自分の力で乗り切っていこうとしてしまうのではないでしょうか。神様の救いを求めず、自分の力で生きていこうとする。これが私たち人間の罪となります。神様は、バプテスマのヨハネを通して、私たちに「悔い改めよ!」と教えるのです。つまり、「自分の力で歩むのではなく、神様があなたの道を整えてくださることを信じて委ねましょう」ということです。

 

私たちの人生の歩みは、曲がった道、でこぼこの道、多くの困難、苦しみが多々あります。神様が道を平らにしてくださるということは、私たちの前にある困難や、苦しみが、なくなっていくということではありません。曲がった道、でこぼこの道がまっすぐとされるということ。それは、私たちがそのような道を歩むことができるために、私たちの日々の苦しみ、そして痛みを知り、その罪のために十字架で死なれたイエス・キリストが来てくださったということなのです。私たちの歩む道は、どんなに頑張っても、曲がっており、でこぼこなのです。その私たちの道を、受け止め、痛みを知り、まっすぐにしてくださるイエス・キリストがおられる。このことが、神様の御業、救いの福音なのです。私たちは、この主の救いを仰ぎ見る中で、悔い改め、そして主の道へと導かれていきたいと思います。私たちは、自分の力で、どうにか頑張って、救いを得るのではないのです。自分が何かをしたから、平安と希望を得るのではありません。私たちは、神様の御業を信じて、神様がその道を整えてくださることを信じて、すべてを神様に委ねて、歩みだしたいと思います。(笠井元)