1: 預言と異言
パウロは12章ではそれぞれの賜物・働きに違いはあったとしても、それらは同じ一つの霊によって与えられているものであり、「全体の益」(12:7)となると教えます。13章では最高の道(12:31)として愛について語り、どれほどの異言、預言、神秘、知識、信仰、奉仕があったとしても、そこに愛がなければ、何の益もないと教えるのです。(13:1-3)
ここから預言と異言について語ります。預言は人に向かって語り、人を造り上げ、励まし、慰める(14:3)もの、教会を造り上げる(14:4)ものであると教えます。
本来、預言とは神様から預かった言葉のことです。その内容は警告、祝福、救いの知らせ等、様々なものとなります。ここでの預言は異言との対比の意味の言葉として用いられており、本来の預言の意味からすると狭い意味での言葉となります。また24、25節では、預言とは罪の指摘、神様に礼拝へと導く言葉とされるのです。(14:24-25)
これに対して異言とは、人に向かってではなく、神様に向かって語るもの(14:2)であり、自分を造り上げる(14:4)ものであると教え、また14節からは、祈り、賛美、感謝(14:14-17)とされるのです。
2: 異言の過大評価
異言は、自分と神様との関係において、確かに意味のあるものでしょう。パウロも、自分も異言を語ることができる(14:18-19)とし、異言を禁じてはならない(14:39)と教え、「あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思います」(14:5)と教えるのです。そのうえで、パウロは5節において「教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっている」と言うのです。
この時コリントの教会においては異言を特に重要視していたことでした。恍惚状態となり、人を驚かすような出来事を見る中で、異言というものが魅力的に見えたのでしょう。コリントの教会では異言が過大評価されてしまっていたのです。
パウロは12章では「人々が恰好が悪い部分を格好よくし、見苦しい部分を見栄え良くしようとしている」と指摘し、【それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。】(12:22)【神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。】(12:24)と教えたのです。
3: 預言:教会を造り、人を造り上げる
パウロは異言を求めるのではなく、預言を熱心に求めなさいと教えます。預言は人を造り上げ、励まし、慰める(14:3)、そして教会を造り上げるものです。
私たちは預言の働きとして何ができるでしょうか。一つは祈ることでしょう。お互いのために祈り合いたいと思います。
もう一つに、聞くということもあるのではないでしょうか。聞くこと、お互いに仕え合うことで、励まされ、慰められたいと思います。
そして、何よりも、み言葉に耳を傾け、み言葉から愛を頂いていきたいと思います。
私たちは教会を造り上げるために、霊的な賜物、他者を想い、他者に仕える業を熱心に求めていきたいと思います。(14:12) (笠井元)