1: 欲望のままに生きる社会
今日の箇所において、バプテスマのヨハネはこのように言いました。【「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」】(3:7-8)バプテスマのヨハネは人々を「蝮の子ら」と呼び、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と、悔い改めることを求めたのでした。この時、群衆は、バプテスマを授けてもらうために、荒れ野にいるバプテスマのヨハネのところへとやってきたのでした。しかし、群集が求めていたのは、ただバプテスマを受けるということであり、そこに、悔い改めるという思いはなかった。それこそ自分たちは「アブラハムの子だ」として、自分たちは特別な民であり、救いの約束の中にいると思っていた人々がいたのです。だからこそ、悔い改めることを必要とは考えずにいたのでした。
このことは、ここに登場する群衆が特別な存在というわけではないと思うのです。この世は、悔い改めることを望まない社会となっています。よく言われるのは、「あなたは間違っていない」「あなたは正しい」と語り掛けることが大切だとし・・・「そのままの姿で大丈夫」「あるがままの姿でいいんだ」「自分を見つけ自分らしく生きればよい」・・・と、このようなことから、自己肯定感を持つようにと、言われるのです。悔い改めとは、自分の生き方を変えていくことであり、方向転換することとなります。そのような意味で、この世は悔い改めを望んでいないのです。実際、私たちは自分自身が悔い改めることが必要だと思っているでしょうか。悔い改めるということを求めているでしょうか。
バプテスマのヨハネは人々に、【「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」】(3:7)と言いました。ここでヨハネは神の怒りを語ります。私たち人間は、神様の怒りということを忘れてしまっていることがあります。神様と言えば、愛の方、優しい方、何をしても、最終的にすべてをそのままで赦してくださる方と考えているのかもしれません。確かに、神様は、私たちのすべてをそのままの姿で受け入れてくださるし、愛してくださっています。それは変わることのない「神の愛」であり、「神様の慈しみ」です。しかし、だからこそ、神様は、悲しみ、怒りを持たれるのです。心の底から私たちを愛してくださるからこそ、私たちが、自分勝手に生きている時、神様の愛を受け取ること、隣人を愛することを忘れ、自分のことばかりを考えて生きている時に、その姿を悲しんでおられる。そして怒りを持たれるのです。
私たちは「あなたの生き方は正しい」「あなたはそのままでいいんですよ」と言われる方がもちろん嬉しいと思います。神様の怒り、神様の思いなど気にせず、生きていきたいように生きていくほうが、楽なのかもしれません。では、もしすべての人間が、自分の生きたいように生きて、やりたいことだけをして、本当にそのままの姿で生きたとき、この社会は、どのような社会になるのでしょうか。今日の箇所で、11節からは、「2枚の下着を持っている者は、一枚も持たない者にわけなさい」、と教えます。もし、わたしたちが、それぞれが自分のためだけに、やりたいことをして、生きる時・・・二枚の下着を持つ者は、分け合うことができるのでしょうか。むしろ1枚の下着しか持っていない人からも奪い取り、3枚、4枚と求める者となるのではないでしょうか。欲望、欲求をそのままに生きるならば、もっと欲しい、もっと得たい。誰かから搾取してでも、自分の財産を増やそうとする者となっていく。これが人間の欲望です。このあと19節からの場面では、バプテスマのヨハネが、領主ヘロデに捕らえられていくことが記されています。ヘロデは、欲望のままに、自分の兄弟の妻であるヘロディアと結婚したのです。そして、このことを、バプテスマのヨハネに間違ったことだとして指摘されたのです。このことで、ヘロデはヨハネを捕えたのでした。ヘロデは、自分の間違いを指摘される中、その間違いを認めて悔い改めるのではなく、そのような指摘をする者を捕え、最終的には、その者を殺害していったのです。このようなことは、2000年以上たった、今の時代でも変わらず起こっている出来事なのです。権力を持つ者が自分の欲望、利益のために多くの人々を苦しめていく。そして自分たちの生き方を指摘する人がいれば、そのような言葉を発することすらできないようにしていく。私たちが生きるこの社会でも、同じようなことが起こっているのです。そして、これが、人間が「そのままの姿」で生きていく世の中、悔い改めることのない世の中なのです。
2: 悔い改める道
このような社会に、バプテスマのヨハネは、悔い改めることを求めたのでした。このヨハネの指摘に対して、群集も、徴税人も、兵士たちも「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねるのです。その問いに、バプテスマのヨハネは、「悔い改めなさい」と教えます。悔い改める道。それは、自分中心に生きることから、神様に目を向けて生きること。どのような時も私たちを愛し、憐れみ、救いの手を差し伸べてくださっている、神様の救いを受け取って生きていく道なのです。
9節ではこのように言います。【「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」】(3:9)ここでは良い実を結ばない木は、すべて、斧によって切り倒され、火に投げ込まれると言われます。そしてそれは、まさに自分勝手に生きるすべての人間のことを意味するのです。神様は、私たちを愛し、手を差し伸べてくださっている。しかし、私たち人間は、ただ、自分のためだけに、自分中心に生きてしまう。神様に目を向けることができない者なのです。しかし、神様は、そのうえで、この私たち人間を切り倒し、火に投げ込まなかった。実際に神様が切り倒されたのは、神の御子イエス・キリストでした。本来ならば、良い実を結ぶ木としてあるのはイエス・キリストのみです。しかし、神様は、このイエス・キリストを切り倒されたのです。神様は、イエス・キリストを火に投げ込まれることによって、私たち人間が良い実を結ぶ木となる道を開かれた。私たちが神様のもとに立ち帰る道を開いてくださったのです。神様はこのイエス・キリストをもって、私たちに「悔い改める道」を作ってくださったのです。
私たちが悔い改めるということ、それは、私たちが良い行いをする者となることではありません。私たち人間が、どれほど良いことを重ねても、神様に目を向けることができないという本質は変わることはないのです。私たちが悔い改めるということ。それは、神様がイエス・キリストを通して、私たちに救いを受け取る道を開いてくださった。そしてこの道を歩き出すこと、それが悔い改めの道なのです。
バプテスマのヨハネは、自分は水でバプテスマを授けるが、救い主、メシア、キリストは、聖霊と火でバプテスマを授けると教えます。水でのバプテスマ。それは、自らの間違いを悔い改め、生き方を変えていこうとする道です。それに対して、聖霊と火によるバプテスマとは、このイエス・キリストの十字架と復活によって、与えられた救いの道、悔い改めの道を受け取ることです。そのような意味では、イエスを自らの「主」「救い主」と告白してバプテスマを受けることが、聖霊と火によるバプテスマを受けることであり。それは、ただ神様の一方的な恵みによって与えられた救いの御業を頂いているのです。
3: 悔い改めの実を結ぶ
私たちは、このイエス・キリストによる神様の愛を受け取りたいと思います。私たちは愛されている。それこそ間違いだらけの私たちですが、それでも神様は愛してくださっているのです。そのような私たちに、バプテスマのヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」(3:8)と言います。「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」。そのために、ここでは、隣の人と分かち合うこと、搾取をせず、だまし取ったりせず、自分の給料で満足せよと教えているのです。バプテスマのヨハネは、徴税人に徴税人を辞めなさいとか、兵士に兵士を辞めて生きていきなさいとは言っていないのです。悔い改めるためて生きるために、この世での生き方から離れ、隠遁生活を送るように教えているのではないのです。ここで言われていることは、何か特別なことが求められているのではないのです。隣人と分かちあう道、奪い合うのではなく、分かち合い、搾取するのではなく、正しく規定通りに取り立てる。金をゆすり取ったり、人をだますことなく、自分の給料で満足する・・・ということが求められているのです。
この当然のようなことができない。それが、私たちの生きる社会、人間がそのままの姿で生きた社会、自分の利益ばかりを考えている社会なのです。私たちは自分の利益ばかりを求めてしまっていないでしょうか。下着を1枚も持っていないとされる人、食べ物を持っておらず飢えている人に目を向けているでしょうか。隣人と共に生きるという道を選ぼうとしているでしょうか。共に、神様の愛を頂き、共に祈り合い、共に喜ぶ道を選んでいるでしょうか。
悔い改めの実を結ぶ道。それは、私たちのために死んでくださったイエス・キリストの道を歩みだす道です。キリストは、私たちのために傷つき、それでも私たちを愛し、共に生きる道を選んでくださったのです。つまり、私たちに目を向け、私たちと共に生きる道を選ばれたのです。
イエス様はこのように教えられました。【「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ9:23-24)私たちに示されている道、それは自分のためだけに生きる道ではなく、自分を捨てる道であり、そしてそこに本当の救いを得るのです。悔い改める道。それは、自分のために生きる道から、神様と共に、そして隣人と共に生きる道です。この十字架を背負って生きる道を歩き出すとき、そこに「悔い改めの実を結ぶ者」とされていくのです。
4: 感謝して生きる1
今日は、最後に、「感謝する」ということについて見ていきたいと思います。神様は、どのような時も、どのような私たちをも愛してくださっています。間違いを犯し、神様から離れていく私たちをも、愛してくださっているのです。この神様の愛、イエス・キリストによる救いを受けるとき、私たちは、心に感謝という思いを得るのです。今日の箇所14節では「自分の給料で満足せよ」(3:9)と言いました。人間の欲望は尽きることがありません。何かを求める心は際限がないのです。そのような私たちが、悔い改めるということは、今の自分、今、与えられている自分に感謝することへとつながるのです。皆さんは、今、何のため、誰のために生きているのでしょうか。今の自分の人生を、命を与えられているということを感謝できているでしょうか。私のところには、「神様がおられるならば、どうして自分ばかり苦しい思いをしなければならないのか・・・」といった相談に来る人がいます。この世界では、多くの苦しみ、悲しみの出来事が、理不尽に襲い掛かってきます。私自身も「なんで」「どうして」と思うことがあります。そのような思いの時、自分が、何のために生きているのか、むしろ、神様になんのために生かされているのかを考えてみたいと思うのです。どれほど苦しくても、どれほど悲しくても、そこに主イエス・キリストが共に生きてくださる。イエス・キリストは、私たちの命のために、その命を投げ出してくださったのです。
神様が私たちを愛してくださっている。私たちは、この神様の恵みに、もう一度目を向けていきたいと思います。感謝する時、私たちは際限のない欲望から解放されるでしょう。そして今を喜び生きる者とされるのです。そして、そこに、本当の意味での「自己肯定感」を持つことができるでしょう。私たちはただ、神様に愛されている。その恵みを、そのままで受け取っていきましょう。(笠井元)