最近はよく「燃え尽き」(バーンアウト)という言葉を耳にします。一生懸命仕事をしたり、勉強をしたり、家事・育児をして疲れ果て、うつ状態になってしまうのです。私も後期高齢者となり、自律神経失調症というか「燃え尽き」気味です。「燃え尽き」てしまうと、今担っている働きが出来なくなり、そこから脱落(ドロップアウト)してしまいます。人間の力は決して無限ではない限り、誰にでも起こりうることです。人は空気中の酸素を取り入れ、吐出し、ものを食べ、排泄する生き者であることを考えても、いつもそれが順調にいくわけがない、まさに、神から造られたもの、被造物なのです。
出エジプト記3章には、イスラエル民族にとって、その信仰の原点ともいうべき出来事が描かれています。モーセが羊の群れを飼っていて、神の山ホレブ山麓にやってきた時のことでした。柴は火に燃えているのに、その柴は燃え尽きないという不思議な現象に出会ったのでした。モーセにはそれが神様との出会いの機会となりました。神はイスラエル民族の解放の働きを、一度は挫折を経験し、燃え尽きてしまったモーセを用いて、起こされたのでした。そして、神は今朝、私たちの中に新しい救いの働きを起こそうとされているのです。
「モーセはしゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒野の奥へ追っていき、神の山ホレブに来た」。もしこの場面を写真に取ったならば、モーセは周囲の景色から浮いて、魂が抜けたように、ぼやっと写っていたかも知れません。彼は心傷ついた「放浪者」でした。2:21~23に記されているように、チッポラという女性と結婚はしたものの、生まれた子どもに「ゲルショム」(ゲール 異邦人)と名づける始末です。彼は心傷つき、燃え尽きてエジプトから逃げてきたのでした。
当時イスラエルの民はエジプトのナイル川の低地に住んでいました。彼らは、ヨセフの代に、飢饉を逃れてエジプトにやってきて、エジプト王に迎えられたのです。しかし、やがて、エジプトの王朝が替わり、イスラエル民族と同じセム族の王朝からエジプト人本来のハム族の王朝になると、エジプト王は過去のことなどすっかり忘れます。ヘブライ人を迫害し、過酷な労働を強いるようになりました。出エジプト記1:13~14にあるように、「エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた。」と言われている通りです。そしてヘブライ人の人口が増え、叛乱を恐れた王は、女は奴隷に利用できるので生かしておいて良いが、男の子が生まれたら殺せ、と命じたのでした。ところがイスラエルのレビ族の夫婦に可愛い男の子が生まれます。両親はこの子をどうしても殺すことができずに、三ヶ月が経つと、隠してもおけず、祈るようにして、葦のかごに載せてナイル川に流すのでした。運よく王女がこれを見つけて王宮で育ててくれることになりました。桃から生まれた「桃太郎」ではありませんが、水から引き上げた(マーシャー)ということで「モーセ」と名づけられました。乳母が必要だというので、母親のヨケベデが連れて来られました。こうしてモーセは一方ではエジプト王の子として薫陶を受け、他方母親からは神を畏れるイスラエルの信仰の伝統を教えられたわけです。モーセが年頃になると、エジプト王家の環境で育てられた彼でしたが、自分の民族への愛に目覚めたのでしょう。あるいは若者の正義感からでしょうか、ある日エジプト人がイスラエル人を暴行しているのを見て、同胞を救うため、そのエジプト人を撲殺してしまうのです。ところが同胞イスラエルはモーセのそんな心持ちを理解せず、むしろモーセを恐れて彼を排斥するのです。「誰がお前を立てて我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」(2:14)。モーセの心をえぐる言葉です。これを聞いて「モーセは恐れた」。彼は孤立し、傷心のままシナイ半島の東側ミディアンの地を彷徨います。私たちもまた自分の善意が通じないこと、良かれと思ってしたことが理解されず、返ってアダになるということに出会います。最善を尽くしても受け入れられず、燃え尽きてしまうことがあるのです。時に、教会においてもそんな経験をすることでしょう。モーセは虚脱感をもってミディアンの地を放浪し、そこで結婚しますが、心のもやもやは消えていません。先ほど言いましたように、生まれた息子に「寄留者」(ゲルショム)と名づける始末です。彼はいまやエジプト人でもなく、イスラエル人でもない、」「故郷喪失者」でありました。しかし、いま、燃えているのに燃え尽きない柴を目の当たりにしています。彼は心動かされます。
「しば」(セネー)というのは、「とげとげ」(セナー)という言葉から来ているので、これは、エジプトやシナイ半島に生育するアカシヤ科の潅木であったろうと言われます。あるいは、このアカシヤの木に寄生するヤドリ木が真紅の花を大量に咲かせ、燃える炎を連想させたのかも知れないと言われています。あるいは、実際、そのガクから揮発性の油が出て、灼熱の太陽によって一度火がつくと燃えても燃え尽きない植物が、ホレブ山麓に今でも生育しているという話をテレビで聞いたこともあります。そして「セネー」はまさにこの地方、「シナイ半島」と同じ語源なのです。それはともかく、正義感と善意で立ち上がり、自国の民から誤解され、燃え尽きてしまったモーセはこの「燃えているのに燃え尽きない」不思議な現象に捉えられるのです。
すると、「モーセよ、モーセよ」と静かに響き渡る神の声が聞こえます。ここでは神が徹底的に主導権を握っています。「主の御使いが現れた」「主はご覧になった」「神は声をかけられた」。すべて主語は「神」または「主」です。モーセは自分の決意で、自分の勇気で、自分の自己犠牲で、自分の正義感からイスラエルの民を救おうとしたのです。しかし、あくまで自分自身が主であったのです。ところがここで、モーセは自分自身で自分のことを知る以上にモーセを知っていてくださり、「モーセよ、モーセよ」と名を呼んで呼びかける主なる神に出会ったのでした。出エジプト33:17には、「主はモーセに言われた『わたしはこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからだ』とあります。口語訳では、「またわたしは名をもってあなたを知るから、あなたの言ったこの事もするであろう』」と翻訳されています。今朝、主なる神は皆さん一人ひとりの「名」を親しく呼んでくださるのです。あるとき、私が青年時代の頃ですが、何かの拍子で、「牧師夫人」を「玲子さん」と呼んだことがありましたが、とても喜んでくれました。牧師夫人と呼ばれて、いやなことではなかったようですが、ときに「私は私である」という解放の時が必要なのかも知れません。「モーセよ、モーセよ」と自分の名を神が呼んで下さった。ここにモーセが生き返る瞬間があったのではないでしょうか。
7節のみ言葉に注目してみましょう。「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを、つぶさに見、追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞き、その痛みを知った。』何と心温まる言葉でしょう。燃えていて燃え尽きない情熱の神は、エジプトで奴隷状態にあったヘブライ人の「悩みを見、彼らの叫びを聞き、彼らの苦しみを知られる」のです。「見る」「聞く」「知る」という力強い動詞が用いられています。これは2:23以下にも現れています。「イスラエルの人々は、労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」。この「顧みる」が「見る」という同じ動詞であり、「心に留める」が「知る」という動詞です。神はイスラエルの苦悩を「見て」「聞いて」「知ってくださる」のです。これは「神ご自身がイスラエルの苦しみと一つとなって苦しんでくださる」ということにほかなりません。主なる神は「イスラエルの苦悩と連帯してくださる」のです。そして、天の上でじっとしておられずに、イスラエルの人たちの苦しみのただ中に下り、彼らを救い出し、導き上るというのです。モーセは自分の力で同国民を救済しようとして燃え尽きましたが、実は神ご自身がイスラエルの救済者であることを知らされたのです。神ご自身が、切れたかに見えた糸をつないでいてくださるのです。
愛する兄弟姉妹たち、主なる神は皆さん一人ひとりの夜流す涙や苦しみのため息や呻き、孤独を「見ておられ」「聞いておられ」「知っていてくださる」のです。そして自ら「下り、救い出し、導き上る」と言うのです。この言葉は実に、イエス・キリストの出来事によって見事に私たちの中で成就しているのです。私たちもこの神から、救いの喜びと解放の使命とエネルギーとを受け取りたいものです。
新しい神に出会ったわたしたちは新しく生きねばなりません。新しい生き方をするように招かれているのです。随分昔の『朝日新聞』の「窓 論説委員室から」というコラムにこんな文章が掲載されていました。「一冊の本がソウルから届いた。韓国オペラ界の重鎮である李仁栄(イイニヨン)さんが日本語で書いた「新木槿通信」だ。李さんは朝鮮戦争の直前、声楽の勉強したさに船に密航して日本に渡り、東京芸大で学んだ。やがて藤原歌劇団のバス歌手「金慶植」として売り出す。… 書名にあるムグゲは、サクラみたいに一度に咲きそろうことはない。一輪一輪は短命だが、夏から秋にかけて次々と花をつける。粘り強く苦難をしのぎ、発展する姿も託して、国花にした。その背景には、日本に植民地支配された歴史もまた当然に絡んでいるだろう。李さんは本の中でそう言う。「胸の痛み、涙もまだ乾いてはいない立場の人々を考えてください。深い傷もそのままです」。「古い殻を捨てた新しい日本を期待しているのです。世界の日本を期待しているのです。世界が心から尊敬する日本になって欲しいのです」。そしてさらに、「古い殻を捨てた新しい日本を期待しているのです。世界の日本を期待しているのです。世界が心から尊敬する日本になって欲しいのです」と祈ります。
モーセはエジプトに生き、しかもヘブライ人でした。李さんも韓国と日本と言う二つの祖国を持っています。私たちの会衆には中国の方がおられます。中国人の誇りを持ち、日本社会を愛して下さっているでしょう。神は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」父祖たちの神であると同時に、「有って有る者」「ヤハウェ」という名の神、存在するものすべてをその根底から支える普遍的な神です。私たちは日本人であることを誇りにしながら、民族を超えた新しい国のために、自由、平等、人権擁護、武力によらない平和など普遍的な価値のために献身して生きる者でありたいと願っています。「新しい日本に期待しているのです」。なんと素敵な祈りでしょう。新生日本のシンボルである平和憲法、第9条を変え、戦争の出来る国にする動きがあります。それを推進していたのが安倍晋三元首相でした。そして、私たちは安倍元首相が先週金曜日銃撃で殺されたことに心を痛め、それぞれにそれぞれの仕方でショックを感じていることでしょう。彼の死が政治的、マスコミ的に、社会的に利用されないように祈ります。今日は、参議院議員選挙投票日です。私たちは仕事も立場も様々ですが、この「新しい日本、世界の日本、世界が心から尊敬する日本」を祈り求めて生きて行きましょう。
*この説教原稿は7月6日夜時点で牧師に送付したものですが、7月8日安倍首相が殺戮され、急遽、2頁の赤字部分を消去し、最後の赤字部分を付け加えて説教をしました。YouTubeのオンライン映像が私の説教が始ます前にブレイク・ダウンしてしまいましたので、東福岡教会のホーム頁に実際に実施した説教を残しておきます。松見 俊