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2022.7.13 「預言:他者との交わりを生み出す言葉」 Ⅰコリントの信徒への手紙14:13ー25

1: 個人的な賜物 異言 

14節~17節で異言とは「霊での祈り」「霊での賛美」「感謝」とされ、神様と人間の関係においてなされる行為として理解できます。

異言は、教会に来て間もない人…求道者というよりは、一般会衆のことを意味しているとされますが…にとって、何を言っているのかわからないもので、「アーメン」とは言えないものです。17節では「他の人が造り上げられない」ともあります。

 私たちは、祈りの内にお互いの心を合わせて、「アーメン」と唱和します。しかし、異言による祈りは、何を言っているのかわからないため、お互いの交わりが造られていくことはないのです。 

 

2: 共に生きるための言葉 

 コリントの教会では、異言を特に過大評価し、その異言という賜物をもって、神様の栄光が表されるのではなく、自分が優れた者であるとしたのです。異言は自分の価値を高めるものと考えていたのです。パウロは、1万の異言を語ることもできるとしますが、それよりも、理性による5つの言葉を語ることの方が意味があるとしました。

理性による言葉とは、信仰の交わり・関係を造り上げていく言葉を意味します。私たちは、理性による言葉、共に生きるための言葉、他者との関係を造り上げていく言葉、愛の言葉を大切にしているでしょうか。

Ⅰコリント8章1節では、【知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる】(8:1)とあります。パウロは、共に生きること、神様の愛を共に表すことに生きることを教えているのです。

 

3: 物の判断の基本姿勢

20節では、物の判断の基本姿勢として「物の判断については子どもとなってはいけない」。と教えます。イエス様の言葉【蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。】(マタイ10:16)の言葉を思い起こします。

私としては、「子ども」と「大人」で分けることには、あまり好ましくは感じませんが・・・

「物の判断については子どもとなってはいけない」ということは、自分の賜物・異言を誇示し、自分と他者を比較するような者となるのではないと教えます。「物の判断については、大人になるように」と教えます。それは判断基準、価値観の中心に「信仰」を持って判断することを教えています。

また「悪事については幼子となるように」と教えます。これは、計画をもって悪事を行う者、知恵者として策略を練って、人を陥れるようになることのないように教えているのです。

 コリントには、自分たちは完全な者・完全な信仰を持ち、完全な大人であると考えている人々がいたのです。この判断は大人の判断と言うことができるでしょうか。「大人としての判断ができること」、それは「信仰に生きること」「心の中心にイエス様を迎え入れること」を目指して生きることを教えます。

 

4: 異言を求める時、不信仰者と陥る

 21節は一つの説としてイザヤ書28:11-12からの引用とされています。【確かに、主はどもる唇と異国の言葉で、この民に語られる。28:12 主が彼らに言っておかれたことはこうだ。「これこそが安息である。疲れた者に安息を与えよ。これこそ憩いの場だ」と。しかし、彼らは聞こうとはしなかった。】(イザヤ28:11-12

 ここでは神様の言葉に耳を傾けないイスラエルの人々の姿を表しています。パウロは、同じように、「異言」を求める者は、神様の言葉に耳を傾けないこととするのです。私たちは神様から多くの賜物を頂いている者として神様の御言葉に耳を傾け続ける必要があるのです。

 

5: 福音の言葉 預言

 ペンテコステの時、人々は聖霊を受け、様々な言葉で福音を語り、ペトロが説教をし、多くの人々が心を打たれバプテスマを受けたのです。ここでは、福音の言葉によって、人々は心のうちに隠していた思いを明るみに出され、神様を礼拝する者とされていくことを教えます。

トゥルナイゼンは「罪の暴露は、人間に重荷を負わせるのではなく、重荷を取り去り、彼を神の前に置いてあげるという意図をもってなされる」と言いました。私たちは、心の中に重荷を持っています。福音とは心の重荷を神様の前に置き、神様に委ねていく言葉です。それは、神様にひれ伏し、礼拝することであり、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と信仰告白をすることへとつながります。(笠井元)