1: メシアを待ち望んでいた民衆
民衆はメシアを待ち望んでいました。ルカによる福音書で「民衆」という言葉は、大勢の人々を肯定的な意味で語るときに使われ、「群衆」とは、バプテスマのヨハネが「蝮の子らよ」と言ったように、否定的な言葉として使われます。民衆は心の内でバプテスマのヨハネがメシアではないかと考えていました。人々はヨハネの「悔い改めなさい」という言葉、バプテスマの行為に、神様から出ている何かを感じたのでしょう。
2: メシアとヨハネの絶対的な違い
そのうえで、この人々の思いを感じたバプテスマのヨハネは「自分は、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言いました。ここには絶対的なる違いがあることを教えているのです。人間には命を造り出すことはできません。それは神様のなさることです。私たちは自分の持つ弱さや他者の個性、長所や短所を、神様がお造りになったものとして見ているでしょうか。私たちの命を創造された神様のみが、私たちの救い主となられるのです。
3: 裁き
神様だけが私たちを救われる。それは、神様だけが私たちを裁かれるということでもあります。神様は、殻を落とし、きれいな麦を集められるように、私たち人間を神様の正義と愛の裁きによって、きれいな状態にしてくださるのです。神様は、私たち人間をイエス・キリストの十字架によって聖めてくださいました。イエス・キリストの十字架によって、私たちは重荷、苦しみから解放されたのです。ここに神様の愛が現わされたのです。
4: 聖霊と火のバプテスマ
バプテスマのヨハネは、「その方は聖霊と火であなたたちにバプテスマを授ける」と言いましたイエス・キリストの十字架によって与えられるバプテスマこそ聖霊と火によるバプテスマなのです。イエス・キリストを、自らの救い主として告白する時、この世の様々なものに縛りつけられている、私たちの心は解放されていくのです。神様は聖霊を送り私たちを導いてくださるのです。神様の愛、イエス・キリストの恵みは、私たち一人一人に、そしてこの教会に、そして全世界のすべての人々に注がれ続けているのです。私たちは、この福音の証し人として歩んでいきましょう。(笠井元)