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2022.7.17 「神様の愛を現す者」(全文)  ルカによる福音書3:15-20

1:  メシアを待ち望んでいた民衆

 ここで、まず最初に「民衆はメシアを待ち望んでいた」(15)とあります。民衆は、メシアを待ち望んでいました。ルカによる福音書では、大人数の人々を表す言葉として、ここに登場する「民衆」と、3章7節に出てきます、「群衆」という言葉が使い分けられています。ルカによる福音書で使われる、「民衆」という言葉は、大勢の人々を肯定的な意味で語るときに使われる言葉で、「救いを受ける用意のある民」、「福音を求める民」としての意味を持ちます。それに対して、7節にある「群衆」とは、バプテスマのヨハネが「蝮の子らよ」と言ったように、どちらかと言えば、否定的な言葉として使われるのです。このような理解の上で、ここでは「群衆」ではなく「民衆」がメシアを待ち望んでいることを語るのです。民衆とされる人々が求めていたメシアとは、どのようなメシアであったのでしょうか。

聖書において、人々が求めていたメシアについては、さまざまな箇所に記されています。人々が待ち望んでいたメシア、救い主、そのメシア像の一つとしては、政治的にローマの支配から解放する人という姿がありました。また、もう一つには、経済的に生活を保障してくれる人という姿、または病からの癒しを与えてくださる人といったメシア像を人々は求めていたのです。人々は、このような実際の生活が豊かにしてくれる方、生活を整えてくれる方を求めていたのです。

 今日の箇所において、人々は心の内で、バプテスマのヨハネがメシアではないかと考えていました。バプテスマのヨハネは、「悔い改めなさい」ということを教え、人々にバプテスマを授けていました。ここに、先ほどのようなメシア像は当てはまりません。ヨハネは、人々の望んでいた、政治的な解放、経済的な生活の保障といった出来事を起こすようなことはせず、人々に「悔い改めなさい」と教えたのです。人々にとっては、このバプテスマのヨハネとは、自分たちが求めているメシアとは違う姿の者でしたが、その人を「メシアではないか」と考えたのです。

 

 人々は、このヨハネの「悔い改めなさい」という言葉、そしてそのバプテスマの行為に、神様から出ている何かを感じたのでしょう。このバプテスマのヨハネとは、イエス様が来られる前の、道を整える者とされます。ルカによる福音書1章では、バプテスマのヨハネについて、このように語られています。【天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。

その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」】(ルカ1:13-17

 バプテスマのヨハネは、生まれる前から、「イスラエルの民を、神様のもとに立ち帰らせ、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の心を持たせ、準備のできた民を用意する」。そのような働きをすることが語られています。この民衆は「救いを受ける用意のある民」とされる人々であり、人々は、神様からの救いを求める者として、このバプテスマのヨハネに、神様の御業を見たのでしょう。

 

2:  メシアとヨハネの絶対的な違い

 そのうえで、この人々の思いを感じたバプテスマのヨハネは、3:16において・・・【「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」】(3:16)と言ったのです。このバプテスマのヨハネの言葉は、自分と、本当のメシア・救い主には、絶対的な違いがあることを表しています。当時、履物のひもを解くのは、奴隷の仕事とされていました。ヨハネは「自分は、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言いました。メシアと自分とを考えれば、自分には奴隷の仕事をすることもできないし、その値打ちもない。そこには完全なる違い、絶対的なる違いがあることを教えているのです。人間はどれほどの者でも、メシア、救い主になることはできないのです。

人は神にはなれない。ある意味、この「当たり前」のことを、私たちは忘れてしまっていることがあります。私たち人間には自分の命を造り出すことはできません。それは神様のなさることです。私たちは、一人一人、すべての者が、神様に愛され、神様によって創造された者なのです。しかし、私たちはまるで、自分は自分で造ったかのように、その命を扱っている。また、他者の命を扱ってしまっていないでしょうか。自分の持つ弱さや他者の個性、それぞれに持つ長所や短所を、私たちは神様がお造りになったものとして見ているでしょうか。

聖書ではこのように教えます。【空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。】(マタイ6:26-27

【二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。】(マタイ10:29

人間は神様ではないし、神様になることはできないのです。私たちは、神様によって生かされているのです。自分の命も、他者の命も、その良いところも、その弱さも、その個性の一つ一つが、神様に創造され、神様に養われている。私たちは、神様の愛によって生かされているのです。

そして、この私たちの命を創造された神様のみが、私たちの救い主となられるのです。神様以外に、私たち人間の救い主はおられないのです。それがどれほどの人間であろうとも、ここではバプテスマのヨハネのように、神様に福音の道を整える者として選ばれた者であったとしても、ヨハネは人間なのです。バプテスマのヨハネがだれかを救うことはできないのです。私たちが、どれほど良いことを重ねても、それが、直接、救いの業となることはないのです。あくまでも救いは、神様の御業なのです。

 

3:  裁き 

17節ではこのように言います。【「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」】(ルカ3:17

ここでは「裁き」について語られます。神様だけが私たちを救われる。それは、神様だけが、私たちを裁かれるということでもあります。私たちは、自分のことも、隣人のことも、だれも裁くことはできないのです。聖書が、私たちに教える「裁き」とは、イエス・キリストにあって、良い知らせ、福音の一部なのです。

 

神様は、私たちに命を与え、そして命を養い、そしてその命を裁き、そして命を救われるのです。それはこの世にあるような間違った価値観ではなく、神様の完全なる正義と完全なる愛による、何によっても、決して変わることのない裁きを与えてくださるのです。ここでは【箕を持って、脱穀場を隅々まできれいに】(17)すると言われます。箕とは、平たいざるのようなもので、脱穀した麦を入れ、風が吹くところで上下に動かすことで殻を落とすものとなります。つまり、麦と殻との選別するのです。そしてここでは、その殻を消えることのない火で焼き払われると教えます。神様は、私たち人間を、まるで麦と殻とを選別するように、裁かれる。神様は、殻を落とし、きれいな麦を集められるように、私たち人間を、神様の正義と愛の裁きに耐えることができる、きれいな状態にしてくださるのです。

 

 神様は、私たち人間を聖めてくださいました。それは、私たちために、イエス・キリストが、自らが焼かれる者となられ、まさに私たち人間の代わりとして、神の子、イエス・キリストが、神様の愛と正義の裁きのなかで、消えない火で焼き払われる者となられたのです。この、イエス・キリストの十字架によって、私たちは、この世において持つ、多くのしがらみ、重荷、苦しみから解放されたのです。キリストの死は、まさに、神様の裁きの出来事です。神様は、このイエス・キリストの死を通して、私たち人間を聖なる者として、救い出してくださった。

  私たちは、この「裁き」を、つまり、神様のイエス・キリストを通した、一方的な愛による恵みをいただいくのです。そして、それは、今、私たちが持つ多くの重荷、痛み、悲しみをすべてイエス・キリストに委ねることが赦されたということ。主が私たちの持つ、心の苦しみを担ってくださったということなのです。そのような意味で、私たちに与えられている裁きとは、イエス・キリストを通すことによって与えられる、喜びの知らせ、福音の出来事とされたのです。

 

4:  聖霊と火のバプテスマ

今日の箇所で、バプテスマのヨハネは、「その方は聖霊と火であなたたちにバプテスマを授ける」と言いました。イエス・キリストの十字架によって、与えられる救いの御業を頂いていく、バプテスマ。それこそ聖霊と火によるバプテスマなのです。私たちは、私たちの命を造り、また今も養い、そして救い出して下さった主イエスを、自らの救い主、メシア・キリストとして受け入れていきたいと思います。イエス・キリストを、自らの救い主として、告白する時、この世の様々なものにおいて、縛りつけられている、私たちの心は解放されていく。まさに、心の解放の時なのです、

 

 私たちがイエスを主と、自らの救い主と告白するとき、私たちは、神様の正義と愛による裁きを受けた者として、殻のとれた麦のように、神様の愛を現す者とされていくのです。私たちは、バプテスマを受けたから、神様の道から外れないというわけでもありません。神様に対し、いつも、従順でいられるわけでもありません。神様は、そのような私たちのために、聖霊を送り、私たちを導き、私たちが、道からそれてしまっても、いつも新しい道を示し、神様の愛をもう一度受けていくように導いてくださるのです。このイエス・キリストの恵みは、私たち一人一人に、そしてこの教会に、そして、全世界のすべての人々に注がれ、今もなお、注がれ続けているのです。私たちは、この福音の恵みを受け取り、福音の証し人として、歩んで生きていきたいと思います。(笠井元)