本日から、私の説教当番の日曜日には、当分いわゆるモーセの「十戒」に耳を傾けたいと思います。皆さんお一人お一人が、モーセの「十戒」をお心に留めていただいて、日々の生活を過ごして下されば幸いです。しかし、いったいなぜ今頃、「十戒」なのでしょうか? 「十戒」など時代遅れでしょうか? キリスト者は「福音」に生きており、もはや、「戒め」から解放されていると考えるでしょうか?
少し前に、速水健朗(けんろう)という人の書いた『1995年』(筑摩新書、2013年)という本を読みました。この年にはまだ生まれていなかった人もいますね。1995年は日本の戦後50年の節目の時でした。この年に阪神淡路大震災が起こり、オウム真理教の地下鉄サリン事件が起こりました。そこで、「これまでとは同様の社会は続かない」「何が起きても不思議ではない」「これまでの常識が通用しない時代」を予感させたというのです。そして、1997年、神戸で「サカキバラ」事件という事件が起ったのでした。中学生が小学生を殺した事件です。その後、小学生が小学生を殺す事件が長崎で起こりました。ショックだったのは、このような事件の後で、「なぜ人は人を殺してはいけないのか」という子どもたち・若者たちの問いに対して、大人たちが明確に答えることができなかったということでした。私たちが生きている社会の特徴の一つは、従来権威あるものと考えられてきた生活の決まりや社会の枠組みが壊れて、「なんでもあり」という風潮が支配していることです。「家庭崩壊」が言われ、いじめなどの「学級崩壊」が次に問題となりましたが、とうとう、人間「自分自身」が良くわからなくなってしまった、「人間崩壊」現象に直面しているのでしょうか。人生の価値の基準があたかも浮き草のように「漂っている」社会ではないでしょうか。それだからこそ、人間はどのように生きるべきか、その基本を学ぶために「十戒」に耳を傾けることは今日なお、いや今日だからこそ、大きな意味があると思います。
1.「十戒」の成り立ち
「十戒」はさまざまな編集者の手を経て、今日のような形になっているわけです。最初期の形は13、14、15節のような「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」というような極めて簡潔で、憶えやすい、禁止命令の形をとっていたと考えられます。世界最古の法典といわれている「ハムラビ法典」との類似点もありますし、仏教思想における「戒律」とも似ています。しかし、古代オリエントの法の歴史の研究家は、「十戒」は、特に戒めの「動機づけ」の部分がイスラエル固有のものであり、紀元前13世紀に遡ると言っています。日本では「縄文時代」でしょうか。
旧約聖書は、十戒は二枚の石の板に彫り刻まれていたと証言しています。一枚目は1~4戒までで、神と人との縦の関係について、二枚目は5~10戒で人間の相互の横の関係について教えています。
第一戒は3節から始まるのですが、実は十戒の「前文」として1-2節の言葉が決定的に大切なのです。今朝は、十戒の大前提であり、基礎であり、「十戒」全体を照らしている1-2節に注目したいのです。
2.神はこれらすべての言葉を告げられた
20章の最初の言葉は「語られた」(waydabbêr)です。神は語り掛ける神です。この語りかけの言葉を聞くことなしに、この神様との生きた関係なしに、私たちは十の戒めに聞き従う根拠もないし、動機付けもないのです。実は日本文化の問題は、人間の生き方の根本である宗教的理解、信仰を見失っていることにあるのではないかと思っています。
「十戒」は私たちの自由と平等、平和を求める旅の道案内です。それは、私たちのより良い将来への、ユダヤ・キリスト教的なメッセージであり、道案内です。この道案内は、神ご自身が「語られた」という真実に基づいています。(Thorwald Lorenzen, Toward a Culture of Freedom. Reflections on the Ten Commandments Today. 2008, 8-15)人が自分の人生を旨く受け入れ、愛することができない時、神は、「あなたは、生きてよい、あなたを愛している」とお語りになるのです。人がある人を旨く受け入れ、愛することができない時、「その人もまた生きて良いし、愛されている」と言われるのです。新約聖書のヘブライ人への手紙1:1-2aより引用します。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖たちに語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」神は語られた。神は語られた。しかし、私たちは自分のやり方、自分に固執して神の戒めを聴かないのではないでしょうか。そして、神も仏もあるものかと嘯くのですが、実は人間の歴史において神はいろいろなかたちで、いろいろな仕方で語っておられるのです。その中の大いなる伝統がこの「十戒」であり、神の言葉そのものであると信じられているイエス様なのです。この事実に目を向ける時に、どのように生きたら良いのかが知らされます。神はこれらすべての言葉を告げられた!
3.神の自己紹介 YHWH
第2節に入ると、神の語りかけの最初の言葉として神が「自己紹介」されたと書かれています。私たちが初めての他者に出会うときに「自己紹介」をします。神は、‘ānōkî Yahweh ‘ēlōhekā「わたしは主(ヤハウエ)であり、あなたの神である」言います。私たちが信じる神には名前があるのです。つまり、神は、私たちと関わってくださる神、あえて名を名乗り、人間たちにモミクチャにされることをもいとわないお方なのです。7節に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と戒められているので、イスラエルではこの神の名を発音しないことになっています。ローマ字で表記するとYHWHの「聖四文字」です。この聖四文字が登場すると替わりに「主」と呼ぶようにしています。でも本当の処どのように発音するのでしょうか。ヨーロッパの中世の時代、この名をどのように発音するのだろうと話し合われたのですが発音しなくなって2千年以上経ったので、もう誰も分からない。そこで、「主」=「アドナイ」の単語の母音をそのまま当てはめて、「エホバ」(Jehovah)と読むようにしたのです。しかし、最近では、この神の名は「ハーヤー」(ある)という動詞から由来する「ヤㇵウェ」と発音するのだろうということになっています。このような名があるのですが、この教会ではこれからも「主」と発音することにしましょう。
こうして、十戒は、神がご自身を自己紹介されるところから始まります。自ら語られる絶対他者なる神の前に生きるものこそが自由で平等で愛と平和な人間関係を生きることができるのです。この絶対者なる主なる神の前に立たない者は、この世の過ぎ去るものに囚われ、自分たちやそれらのものを絶対的なものにしてしまい、それらに縛られてしまうのではないでしょうか。そして、自己紹介する神を無視するとき、人は、様々な誤りに陥ったり、混乱や不安の闇に包まれて生きる他ないのです。
4.「あなたの神」
そしてこの神は「あなたの神」であると言われています。「わたし」としての神が「あなた」としての皆さんに出会って下さり、「わたし」としての皆さんは神を「あなた」と呼ぶことが許されるのです。主なる神とのこのような親密な関係があって、私たちを自由にする戒めに聴き従うことができるのです。実は、「私」という人は、いったいだれなのかということは意外と答えにくいものです。「わたし」という人間は実は、「あなた」という他者との関係によって成立します。自分で自分の名をつける人はいないでしょう。椎名麟三というクリスチャン作家がおりました。彼はある時、確か岡山に講演旅行か何かに出かけるのですが、途中で所持金がなくなってしまいまして、東京の妻に電報を打ちます。「至急、岡山郵便局留めで金を送ってくれ」と。しばらくして彼は郵便局にお金を取りに行きますと、「あなたが椎名麟三さんであることを証明するものを見せろ」と言われたそうです。わたしは牧師をしておりましたので椎名麟三がその時困った気持ちが分かります。学生なら学生証、会社員なら会社の社員証がありますが、牧師や作家のような自由業、そして主婦にはそれがないのです。私の場合は自動車運転免許証がありますので、今まで何とかなってきましたが、椎名麟三はさぞ困ったことでしょう。彼は「私が椎名麟三です。本人がそう言うのですからこんな確かなことはないでしょう」と言いますと、郵便局員は済まなそうな顔で「済みません。そういう人が一番怪しいのです」と言ったそうです。椎名はこの自分の経験を通して自分が自分であることを証明するのは結構難しいのではないかと問いかけているわけです。彼はかつて共産党員でしたが迫害に会って次々転向していく仲間に直面し、牢屋の中で聖書を読みます。そして、クリスチャンになりました。神の前に立って初めて自分とは何であるのか、何者であるのかが分かったのです。「わたしは主、あなたの神である」。まあ、両親がしっかりしていて、皆さんお一人お一人に良い呼びかけをして、皆様一人ひとりの「あなた」が確立していれば良いのですが、決してそうではないのが現実ではないでしょうか。また、皆さんの周囲の人々が皆さんを正しく、愛をもって呼びかけて下されば良いのですが、決してそうではないのが現実でしょう。大体私たち自身が自分の子どもたちや隣人にそうしているかと言えば決してそうではないでしょう。人を利用したり、自分の欲望の満足の道具というか、自分の都合で振り回してしまう。そうすると、「わたし」と「あなた」の基本的関係がうまく成り立たなくなってしまうわけです。そんな現実を考えますと、深いところで、人間と人間の間の底のところで、「私は主、あなたの神」という根本的関係が成り立っていないと、私たちは「わたし」として生きることができないのです。愛する人たちとの関係において「あなた」として生きられないのです。不確かで、壊れやすい私たちの人間関係を根底から支える神様と私との関係が必要なのです。神はご自身を「あなたの神」と言って下さるのです!
5.奴隷の家からの解放者である神
そして十戒の前文は、その神が、「エジプトの地、奴隷の家からあなたがたを導き出した」(hōwsêtîkā mê’eres misrayim mibbêt ‘abādîm )お方であると言います。私たちクリスチャンにとっては十字架において神と私たちの間に横たわる裂け目に橋を架け、私たちを救い出して下さったイエス様の解放の業でしょう。「わたしはイエス・キリスト、あなたの神、あなたを罪の奴隷から十字架によって贖い出した神である」ということになるでしょう。このイエス様が十戒を守るように命じられるのです。その時に私たちは、十戒を守ろうとする根拠と動機付けを持つことができます。神はこうして、命じ、戒める神である前に、愛し、救ってくださる神、解放して下さる神なのです。これが私たちの信仰の出発点です。この視点を失うと私たちは、コチコチの律法主義者、自分と人を審く者となってしまいます。
ここに、「エジプト」という言葉が登場します。エジプトはピラミッドやスフィンクス、ミイラや死後の世界への興味(「死者の書」)で有名です。エジプトは、この世の繁栄のシンボルかも知れません。しかし、ヘブライ人はエジプトのことを「ミツライーム」と言います。それは「マーツァル」という動詞から由来していまして、「閉じ込められる」とか「制限される」こと、つまり、「どん詰まり」を意味しています。エジプトは一見繁栄しているように見えますが、そこは、人間を抑圧し、多くの奴隷が存在する「どん詰まり」であるとイスラエル人は考えたのでしょう。歴史的に、かつて、エジプトをセム族が支配していた時にヘブライ人はエジプトの地に移り、王朝が従来のハム族に変わると、「奴隷」として酷使されていたのでした。この世の人は自らを自由だと思っているのでしょうが、イエス様の言葉で言えば、「罪を犯す者(単数形「的外れ」)はだれでも罪の奴隷である」(ヨハネ8:34)のです。現代の日本社会に決定的に欠けているものは、倫理や道徳の根底にある信仰の欠如です。大本がないのですからどんな事件が起きても不思議ではありません。どこか、やりたい放題です。そして、昨今の死刑の乱発、罰則の強化です。厳罰主義です。それで住み易い社会が成り立つかと言えばそうではないでしょう。痙攣的な暴力が起こります。人は、奴隷の家からの解放者である神に出会う必要があるし、神は出会ってくださるのです。
6.自由に向けて生きる
しかし、私たちの信仰はここで終わるのではありません。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の地から導き出した神である」。「だから」、この恵みに応答して、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という戦いの生涯へと召されているのです。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の地から導き出した神である」。だから「殺してはならない」という戒めを常に聞き続けねばならないのです。もし私たちが神の恵みを戒めから切り離してしまうなら、その神の恵みは「安っぽい」恵み、腑抜けた信仰となってしまうでしょう。ボンヘェッファーは「信じるものだけが服従することができる」「服従するものだけが信じることができる」と言いました。人を奴隷状態に陥れる社会にあって、教会が証言するべきこと、なすべき働きは大きいと言えましょう。(松見俊)