先週はいわゆる「十戒」の前文を学びました。十戒全体がそこから解釈され、そこへと戻っていくのが「わたしはあなたの神、主である」という宣言文です。神様がまず先立ってご自分を私たちに向かって開いて下さる、語ってくださる処からすべてが始まるのです。「わたし」として神は徹底的にご自身の義を貫き、ご自身が主であることを貫きながら、「あなたの神」としてつまり、私たちと共にいて下さる愛と赦しの神としてご自身を示して下さる、これが私たちの神です。このお方は、具体的には「エジプトの地、奴隷の家から導き出す」という救いの出来事においてイスラエルに明らかにされ、イエス・キリストのご生涯と十字架のあがない、復活の勝利において私たちキリスト者に明らかにされている神であると申しました。
今朝はここから出発して、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」という第一戒の言葉に耳を傾けてみましょう。
1. 第一戒は排他的か?
この戒めに日本の知識人はすぐさま反論し、政治家がキリスト教信仰を批判するために利用します。それを要約すれば、「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という一神教は他の神々を認めないので排他的であり、好戦的である。それに対して八百万の神を信じる多神教の日本社会はとても寛容で素晴らしい」ということになるでしょう。かつて中曽根康弘元首相はそう言っていましたし、京都学派の梅原猛さんもそのようにいいます。彼は縄文文明と仏教を尊重しているようですが、新聞などでそのような論説を書いています。「バカの壁」という本で売れっ子になった養老猛さんもそんなことを言っています。ちょっと聞くと本当にそうだなあと思われることでしょう。アメリカは「自由と民主主義」を合言葉に武力で世界を制覇しようとしているかに見えます。ロシアとウクライナの悲惨な戦争もロシア正教とウクライナ正教というか宗教の対立があるとも言われています。果たして、キリスト教信仰は「国の壁」を超えることはできないのでしょうか。いまは多少静かになりましたが、イスラム過激派のテロに一般市民は恐怖を覚えました。イスラエルとパレスチナの泥沼の闘いもこれに加えることもできます。こうして、例をあげれば数え切れません。いわゆるサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」論で主張されているように紛争の中心に宗教の問題が根強くあるようにも見えます。諸悪の根源は、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」という、一見、排他的に見える十戒の第一戒から由来しているのでしょうか? 決してそうではありません。そうではありません。
2. 多神教は寛容か? 問題は「単一神教」である
では、「日本人の信仰は多神教であるから他者に寛容である」というのは本当でしょうか? かつて天皇を絶対化してアジア・太平洋地域に侵略し、韓国朝鮮人の名前を奪い、天皇を中心とする国家神道を強制し、それを批判した者を徹底的に弾圧したのは日本社会、日本の民衆ではなかったでしょうか。今日でも、いまだにどこか「大企業」がのさばり、多くの労働者を病に陥れ、いのちを奪ってはいないでしょうか。先日テレビを見ていましたら、懐かしい言葉が出てきました。「24時間闘えますか!」という「リゲイン」というドリンクの宣伝です。ある宣教師が「松見先生、日本人は本当に24時間労働しようと思っているのですか!」と聞いてきました。お金や地位をあたかも神のように慕っていることを考えなければ、政治家や高級官僚たちの不正の数々の説明がつかないことでしょう。つまり、問題は唯一神教か多神教か、排他的か寛容かというような単純な「あれか、これか」の問題ではないのです。そうではなく、この世界にある何かを、それがあたかも絶対的なものにして祀りあげてしまう人間の罪が問題なのです。多神教も必ずどちらが上か、三角形の頂点というかピラミッドのような序列を造り上げ、決して他者に対して寛容ではないのが事実です。私たちの隣人が絶対視するものは、日本的なこととか、お金であるとか、社会的地位であるとかを、最近はスポーツもどこか神のように扱われていると感じています。そのような中で、この世界の過ぎ去る何かを絶対的なものにし、神に祀りあげてしまう愚かさから解放する言葉が実はこの第一戒なのです。「あなたが神に祀り上げているものは神ではないよ」ということです。それらはまさに「偶像」なのです。リチャード・ニーバーという人は、『徹底的唯一神信仰と西洋文化』という本の中で「唯一神信仰(monotheism)ではなく、実は「社会的信仰」、この世界の中の何かを絶対的なものとする「単一神信仰」(henotheism)が危険であることを語っています。そして、ユダヤ教も、キリスト教その危険から決して自由ではなかったことを反省しなくてはならないと言っています。つまり、この戒めはユダヤ・キリスト教信仰を持たない人々に対してではなく、私たち信仰者たちのあり方を問うているのです。
重要なことは、自分の選び取りで、一人の神を選び取ること、「あれもこれも」という訳には行かないということです。ポール・ティリッヒという神学者は、「信仰」を究極的関心事(ultimate concerns)と定義しています。私には「関心事」はありませんと言い逃れることはできません。本当の問いは「あなたは神を信じますか?」ではなく、「あなたはどのような神を信じますか?」「あなたの究極的な関心事とは何ですか?」という問いなのです。これは、日本人には理解が難しいのかも知れません。私たちは、態度を曖昧にし、問題を先送りすることが得意ですから。しかし、私は愛と憐れみのお方イエス・キリストを選び取ること、その前提であるヘブライ語聖書が証言する「主なる神」を選択するように勧めます。
3.自由への招き
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」という言葉を、ヘブライ語をそのままを翻訳しますと、「私の顔の前で(顔に向かって)、あなたのために、他の神々をあらしめてはならない」となります。第一の戒めは、まことの神を神としていく闘いへの呼び出しです。しかしそれはコインの表側ですが、もう一面は、人間が人間となり、この世のものがこの世のものになっていく「自由への招き」なのです。この第一戒はユダヤ教の神が、キリスト教の神が唯一であり、他の神は認めないということより、「この世界に存在するあるものを絶対的なものとすると不自由なものになるよ」という警告なのです。他の神々の存在を認めないということではないのです。「私の顔に向かって」について少し考えてみましょう。
詩篇139篇は、主なる神の遍在(神はどこにも存在する)を歌った謳った賛美の歌です。「わたしはどこへ行って、あなたのみ霊を離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前を逃れましょうか」。私たちが直面する状況がいかに厳しく、「陰府に床を設ける」ような感じであっても、主なる神はそこにおられ、いかに神から離れようと、「曙の翼をかって、海のはてに住んでも」神のみ手は私たちを支え、余りの辛さに、「闇は私を覆い、私を囲む光は夜となれ」と嘆いたとしても「夜は昼のように輝く」のです。すべてのことが主なる神のみ顔の前で起こり、すべてのものがこの神の前に存在するのです。およそ存在するもの、およそ起こる出来事は、エジプトの地、奴隷の家からイスラエルを導き出し、イエス・キリストの十字架と復活において異邦人である私たちを救いだす神の前で存在し、起こるのです。そうであれば、この一戒は何よりもまず「わたしに期待せよ、私に信頼せよ、私こそあなたの助け、あらゆる善きものを豊かに与える者である」という神の招きであり、私たちを自由にする声なのです。
4.究極的な関わりとしての信仰
この神の招きが、戒めとして私たちに語られ、神の叫びとなっているのは、私たちは、この唯一の真の神のみ前にありながら、この神に信頼せず、「他の神々」としか言いようのないものに心を奪われる姿があるからです。生ける真の神の目の前で、私たちが真実に信頼すべき父の前で、私たちは、はるかにそれ以下の貧しいものに目を向け、囚われ、不自由なものとなり得るからです。「あなたのために」とあるように第一戒は、神ご自身の問題であるのではなく、つまり、他を認めない神の狭さが問題であるのではなく、自分自身のために神でないものを神にしてしまい、それに捉われてしまう私たちが問題とされているのです。宗教改革者マルチン・ルターは「今あなたが、あなたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それがあなたの神なのである」と言っています。私たちにとってすぐ神のようになってしまうのが、お金です。ルターは言います。「世間には、金と財があれば、神と万物を十分に所有しているもののように思いこみ、ひたすらこれに頼り、これを鼻にかけて、人を人とも思わない連中が少なくない。見よ、これらの連中もまた一つの神を持っているのだ。… 金と財とを持つ者は、それでわが身は安泰なりと心得、まるでパラダイスの真ん中にでもいるかのように、心楽しみ、物に動じることがない。そして反対に、何も持たない者は、思い惑い、気落ちして、神のことなどまるで何も知らないもののごとくである。マモンを持たなくとも、嘆かず、悲しまず、常に明朗である人はほとんど見当たらない」。まさに私たちの姿を言い当てています。大きな金というより、ちょっとしたお金が私たちを揺さぶるのです。確かに私たちにとってお金は必要不可欠な大切なものであります。そうであるからこそあたかも神のごとくなってしまうのです。要注意です。
さらにルターは「すぐれた技能、才能、権勢」などを私たちの神として挙げています。人はすぐ調子に乗って思いあがるのです。あるいは何がなんでも「成功すること」を目指す「成功神話」「成長神話」などと言われるものも私たちの神になりうるものでしょう。美貌や健康でさえ、人を支配する神になりうるのです。しかし、それらのものは真の神ではありえないのです。さらにもっとも危険なものは、先ほど述べましたように、自国中心主義です。次のように言います。「ある民族が、その生存と繁栄とをその究極的な関心、その無制約的な関わりとする時は、その無制約的な関わりのためにほかのあらゆる関わり、経済的福祉と健康、生命、家族、美的・認識的真理、正義、人間性などのあらゆるものを犠牲にすることが要求される。今世紀の極端な民族主義は日常生活の些細な関心事を含めての、あらゆる人間実存の局面において『究極的な関わり』というものが何を意味するかを研究するための良い実験室である」。(ポール・ティリッヒ)
こうして、真の神を神とすることは、人間が人間として、この世がこの世として、位置付づけられて真の自由を獲得し、幸福になることを意味しているのです。それはこの世と人間を徹底的に神ではないものにしていくことに他ならないのです。一神教対多神教、欧米対日本などという対立図式でものを考えるのではなく、人はすべて、真の神を神とする、それ以外のものを神としないように呼びかけられているのです。