十戒の第二戒は「わたしは主、あなたの神。私は熱情の神である」とあります。口語訳では、「ねたむ神」という翻訳でした。「ねたむこと」は通常良くないことと考えられています。美貌を羨んだり、頭の良さや財産などに嫉妬したりすることは人間を卑屈にするからです。しかし「ねたみ」(ジェラシーと「熱情」)(パッション)はコインの表と裏のようなものです。
1.聖書における「熱情」「妬み」
聖書においても「ねたみ」は人間の暗い感情であると考えられています。箴言27:4には「憤りは残忍、怒りは洪水。ねたみの前には誰が耐ええようか」とあります。それはそれで正しい面もないですが、「ねたむ神」という表現はもっと含蓄が深いのです。
聖書が語るねたみとは「熱情」の裏側です。「カーナー」というヘブライ語は「赤くなる」ことを意味し、ある人の言葉や態度に影響されて顔が赤くなることから、「ねたむこと」を意味します。A.・ヘシェルはイスラエルの神は「パトス=情熱の神」であると強調します。「熱情」も「情熱」もまあ同じ意味でしょう。
「情熱の神」と対照的な神がギリシヤの「アパシー=無感動」の神です。かつて四無主義という言葉が流行しました。無気力、無関心、無責任の三無主義に「無感動」を加えたものです。無感動というのはギリシヤ哲学や仏教思想では、人間にとって大切な姿勢です。「冷静」であるということです。人や物事に関心を持ちすぎ、情熱を持って関わろうとすると人は裏切られ、傷つくのです。愛するということは厄介なことであり、傷を受けることです。ですから人間や環境に右往左往されない「冷静沈着さ」「不動心」こそ理想であるというのです。しかし、聖書の神は人間と関わり、そこで人間が悩み、苦しんでいれば、共に悩み、苦しむ(コンパッション)お方です。情熱を意味する「パッション」は「受難」をも意味します。参照イザヤ9:7、26:11、ヨハネ2:17.
2.「偶像」の禁止
第二戒は偶像礼拝あるいは神を「かたち」で表現することを禁止しています。日本社会において、牛、馬、狐、蛇、犬などが神の使いとされています。それらの動物は人間にとって有益であるか、あるいは賢さの象徴です。そしてそのようなもので神を表すうちに、どこか豊かさや、生産手段や、知恵そのものが神になってしまうのです。そして、偶像礼拝には、生ける神を、便利さとか、自分の都合の良さとか、自分のかたち、自分の枠組みに押し込めて、人間が神様を自らの手の中に納め、支配してしまうという動機が潜んでいるのです。私たちが諸々の偶像と力に囚われ、からめとられ、偽りの神々に心を寄せるときに、神は私たちを見離すのではなく、「ここに私がいるではないか」と私たちに迫られるのです。
3.愛の保証としての「妬み」:「妬むこと」が重要であった証。
4.切ってくださるものと受け継ぐもの 因果応報の断絶と祝福の豊かさ
「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみ(hesed)を与える。」(松見俊)