東福岡教会

Instagram

特別集会

子どもクリスマス会

12月21日(土)

13:30~15:00

クリスマス礼拝

12月22日(日)

11:00~12:00

クリスマス・イブ礼拝

12月24日(火)

19:30~21:00

 

東福岡幼稚園

入園・未就園児クラス

申し込み

随時受け付けています

バプテスト東福岡教会

福岡市東区馬出4-13-15

TEL:092-651-3978

     092-651-6270 


アクセスカウンター カウンターカフェ

2022.8.7 「タラント、ただ増やせばいいの?」(全文)  マタイによる福音書25:19-30

1、 お金への関心

 昨年の年末、親戚が子どもを連れてうちに来ました。親戚は、小学4年生の男の子と、5歳の女の子を持つ親ですが、今最も気にしているのは子ども達の教育だそうです。滞在中にどこか旅行に連れていくよりは、色々な本を読んでほしいというリクエストに応えて一緒に本屋さんに行きました。長男は中に入ると、「これは絶対に勉強したい」と言って持ってきた『友だちの作り方』と『お金の使い方』という本でした。友だちもお金も、どっちも必要だもんね!と小3の子どもの切実な欲求に共感を覚えました。彼はとても優しい子で、おうちでよく家事などのお手伝いをしています。うちに来たときも、ワンちゃんの餌の準備や、食後の片付け、皿洗いなどもしています。ただこれらの行動は自分の小遣いを稼ぐためでもありました。お買い物バッグを代わりに家まで持って帰って、10 円をもらったら大喜びした長男。彼はこのような小さな行動を積み重ねていくうちに、なんと500円という大金を手に入れました。そして、彼は小遣いを貯めたい理由をこっそり話してくれました。自分の小遣いでお姉ちゃんたちにコヒーをおごりたいとのことでした。汗を流してコツコツと貯めたお金なので、さすがスタバコヒーをおごってくれ、と言えませんでした。コンビニのコヒーでいいよと言ったら、彼は喜んでローロンの100 円コヒーを買ってくれました。「今まで飲んだ中で一番おいしいコヒーだよ。ありがとう」とお礼を言ったら、「これからも頑張って稼ぐから、また買ってあげるね」と彼の真面目な約束を聞いて、何て素敵な循環だろう、と内心で思いました。

 

2、タラント(賜物?)、ただ増やせばいいの?

 私は中学校を卒業するまでに、親から小遣いをもらったことがなく、中学生の時に好きなお菓子を買うために5角(日本円換算で10 円)が欲しいと言い出すと、母はお金を渡さず、自分で材料を買ってそのお菓子に似たものを作ってくれたのです。小遣いを要求すれば、その使い道は必ず厳しく追及されるので、親から小遣いをもらうことは、ラクダが針の穴を通るより難しかったのです。しかし、専門学校に通い家を離れたとたん、状況が一変しました。当時、私にとって大金と言えるような金額のお金をいきなり手に渡され、それをどう管理し使えばよいのか、本当に困りました。とにかく、銀行に預ける前に、靴箱の中に隠しておこうと思案したのを今も覚えています。

 お金を隠すという話を聞くと、聖書を良く知っている方は、イエスの有名な「タラントのたとえ話」を思い起こすでしょう。ある家の主人が旅に出る前に、僕3人を呼び寄せて自分の財産を預けました。僕それぞれが5タラント、2タラント、1タラントを預けましたが、最初はお金を渡される目的が語られていませんでした。しかし旅から帰ってきた主人の僕たちへの評価を読むと、財産を僕に渡す目的は一目瞭然です。それは自分の財産を増やしてもらうためでした。最初の二人の僕は、主人の期待とおり、そのお金を使って商売し、ほかに5タラント、2タラントをもうけましたが、1タラント預かった者は地面に穴を掘り、そこにお金を隠しておきました。主人は財産を増やした僕たちに対し「忠実な良い僕」と評価し、財産を隠した僕を「怠け者の悪い僕」「役に立たないもの」と呼び、持ちものを全て取り上げ、彼を外の暗闇に追い出しました。いかがでしょうか。皆さんはこのたとえ話をどう読んでいるでしょうか。

 イエスのたとえ話は、福音書に複数出ています。タラントのたとえ話は、良きサマリア人や放蕩息子と同じように、具体的なストーリーを示すものであって、聞く人は頭の中にその映像を思い浮かべることができますが、その解釈は難しいです。たとえ話は単刀直入に結論を示さず、聞き手に問いかけを残すような形になっていますので、様々な解釈を可能にします。古代の教父たちの間では、たとえ話は寓喩的に解釈されることが一般的でした。このたとえ話も、伝統的な解釈では、「主人=神」として、霊的な話として読まれてきました。タラントという言葉は、英語の「タレント」で、能力や才能、神から与えられた「賜物」として受け止められてきました。人は誰もが神からタラントを与えられているので、この話の要点はいくら金儲けをしたかという金額の多い少ないではなく、主人が最初の二人を「忠実な僕よ」と褒めている通り、僕が主人から委ねられたタラントを真面目に活用したかどうか、つまり神への「忠実さ」が問われているという解釈です。この流れの中で、タラントのたとえは倫理的・道徳的な勤勉を勧める教えに用いられ、資本主義経済の発展にも大いに貢献したとも言われています。

 聖書の解釈は人それぞれですが、なぜお金なんかで賜物を譬えるのか、この解釈はちょっとしっくりこない感じがするのです。

 

3、見えない搾取のシステム

 私たちが読んでいる聖書は、イエスより1~2世代後に福音書著者たちが自分たちの共同体の状況や信仰・神学に合わせて編集したものです。福音書著者たちのメッセージの忠実な弟子たちになろうと、私たちは信仰の学びを積み重ねてきました。もちろんこの学びはとても大切ですが、福音書著者たちによって編集される前の、イエスご自身がたとえ話の聞き手であるガリラヤの民衆に何を語ろうとしたのかを、注意を向けて学ぶ必要もあります。新約学者J・イェレミーアスは「イエスがたとえを語った状況と初代教会がそのたとえを理解した状況とは異なっているので、初代教会の生活の座から、イエスが語られた時の生活の座の中に、それを取り戻してこなければならない。」『イエスの譬え』(1947)と主張しています。

 タラントのたとえ話は、マタイとルカ福音書にあります。ルカではイエス様が「たとえ話」をすぐ語り始めるのに対し、マタイでは、「天の国はまた次のようにたとえられる」という前置きがありま

す。これはマタイ特有の語り方です。ルカ版では、たとえ話の主人は、王位を受けるために旅に出たと書き記しますが、この記述の背後には歴史上の出来事がある言われています。紀元前4年にヘロデ大王の死後、ユダヤの王位継承を願って旅に出た息子アルケラオスが、その計画を阻止しようとした市民を帰還後に殺害しました。ルカはこれを暗示して加筆編集したと思われます。福音著者の加筆編集の部分を除いて、イエスの本来の話を見ていきたいと思います。

 始まりの言葉は、「(1人)の人」です。「人」(anthrōpos)は、神・動物と区別して人間一般を指す言葉です。「僕」と訳されている言葉は、元ギリシャ語では「奴隷」(doulos)です。このたとえ話に登場する三人は、主人の家で家臣として働く奴隷たちです。主人に分配委託された「タラント」はどれくらいの価値があったでしょう。当時、成人男性労働者の1日の日当が大体1デナリオンと言われ、1タラントは6000デナリオンに当たりました。これはつまり、1年365日働き続けたとしても1タラントを稼ぐには16年半かかります。しかし現実には、年間平均して2日に1日の割合で仕事にありつけたら良いほうだったので、そうなると、6000デナリオンを稼ぐためには33年かかることになります。1タラントでも庶民が一生かかっても貯めることのできない高額のお金です。ここで合わせて8タラントの財産を分配委託した人は、間違いなく大富豪の家の主人です。主人は家臣たちに権力と身分を与え、更にそれに応じて財産を委託しました。しかし家臣も奴隷でしたから、主人に完全に依存していました。主人が出かけると、彼らは直ちにビジネスに取りかかり、1人目と二人目はそれぞれの富を倍増します。当時の慣例で自分の懐にもお金をいれることができましたから、その分を含めると100%以上の利益を生み出したということです。しかし普通の職人や商人の働き方では、そんな大きな利益を得るのはとても無理なことでした。すぐ考えられるのは、土地を抵当にした高利貸しです。1世紀当時、最も高い正当な利子は約12%でした。しかし銀行屋では25%の利子が取られ、更に現実には60―200%という途方もなく高利子のビジネスが横行していました。ローマ帝国支配下の農民たちは重税に喘いで、借金が払えない土地の没収を避けるために、高利子でもやむを得ず借金して、結局借金を返せずに土地を奪われることが少なくありませんでした。多くの農民が自営農から小作へ、小作から日雇いや負債奴隷へとなっていきました。一握りの資産家たちが所有地を拡張していき、取り上げた畑をより収益性の高い作物に、農民たちが日常生活に必要な基本的穀類を中心に育てていた畑を、輸出用のワインを造れるぶどう園に変えたのです。こうして不在地主たちはますますもうけて巨額の富を握り、その一方で、農民たちは、基本的穀類を得るすべがなく困窮と飢えの生活に落ちていくシステムが作られてしまいました。良い忠実な僕と評価された二人は、どのような仕方でお金を増やしたのでしょうか。主人の称賛と報酬の得た彼らの働きの背後には、土地を取り上げられて負債奴隷の生活に落ちていく農民の家庭崩壊の悲劇があったのではないでしょうか。三人目の奴隷は、「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集められる厳しい方」と言って主人の搾取の実態をさらけ出します。主人は、前の二人に「主人と一緒に喜んでくれ」と言って、奴隷に自分の感情や価値観に合わせるように求めましたが、三人目の奴隷を見ると、彼のとった行動はまさに主人の価値観への抵抗とも言えるでしょう。

 

4、僕の抵抗から学んだこと

 連日、統一教会の問題がニュースで大きく取り上げられる中、教会を含めて宗教団体の「お金」や「献金」への考え方が、世間に問われているように感じます。カルト宗教は金もうけの道具になってしまっている状況は非常に残念に思うと同時に、キリスト教信仰的立場に立って物事を考え、大切な事柄を学び直す必要があると実感します。最近、礼拝の中で取り上げられている十の戒にあるように、聖書の神は、奴隷の家からイスラエルの民を救う神、人間に「生きる自由と尊厳」を与えられる方です。十戒のほかに、「もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。」(出22:24)というものもあります。律法をはじめ、イエスのたとえ話は厳しい戒めや勤勉を勧める話というよりは、貧しい人間の生を豊かにするものであり、小さくされたもの、弱者の武器とも呼ばれて

います。これらの言葉や物語は、貧しく抑圧された人々の解放に向かう意識を持つように促し、キリストに従う私たち個人や団体に「あなたは、弱いものを搾取し、不正そのものの社会システムの維持・再生産に対抗し、『NO』と言えただろうか」と問いかけてくるのです。

 神様は私たちのことを奴隷としてではなく、子として呼んでくださいます。神の子として、神でない権力者や支配者に屈することなく、弱い人々に仕える主イエスと共に、愛と感謝と知恵を持って、自分と自分の持ち物を捧げる信仰者の歩みを続けていきたいと思います。(劉雯竹)