連日、統一教会の問題がニュースで大きく取り上げられる中、教会を含めて宗教団体の「お金」や「献金」への考え方が、世間に問われているように感じます。カルト宗教は金もうけの道具になってしまっている状況を非常に残念に思うと同時に、キリスト教信仰的立場に立って物事を考え、大切な事柄を学び直す必要があると実感します。金銭をどう見て捉えているかは、その人の金銭の使い方に影響することは言うまでもありません。また逆に言えば、金銭の取り扱い方を通して、その人の価値観を垣間見えることもできるでしょう。
イエスの「タラントのたとえ話」の中で、ある家の主人が旅に出る前に、僕3人を呼び寄せて自分の財産を預けました。僕それぞれが5タラント、2タラント、1タラントを預けましたが、最初の二人は、そのお金を使って商売し、100%の利益を得ました。しかし1タラントを預かった者は地面に穴を掘り、お金を隠しておきました。旅から帰ってきた主人は財産を増やした二人の僕たちに対し「忠実な良い僕」と評価し、財産を隠した僕を「怠け者の悪い僕」「役に立たないもの」と呼び、持ちものを全て取り上げ、彼を外の暗闇に追い出しました。
このたとえ話は伝統的な解釈では、「主人=神」として、霊的な話として読まれることが多いです。タラントという言葉は、英語の「タレント」で、能力や才能、神から与えられた「賜物」として受け止められてきました。人は誰もが神から賜物を与えられているので、この話の要点はいくら金儲けをしたかという金額の多い少ないではなく、主人が最初の二人を「忠実な僕よ」と褒めている通り、僕が主人から委ねられたタラント(賜物)を真面目に活用したかどうか、つまり神への「忠実さ」が問われているという解釈です。
新約学者J・イェレミーアスは「イエスがたとえを語った状況と初代教会がそのたとえを理解した状況とは異なっているので、初代教会の生活の座から、イエスが語られた時の生活の座の中に、それを取り戻してこなければならない。」『イエスの譬え』(1947)と主張しているように、聖書は、イエスより1~2世代後に福音書著者たちが自分たちの共同体の状況や信仰・神学に合わせて編集したもので、私たちは編集者の意図を知り、学ぶことが必要ですが、イエス様がご自分と同じ時代に生きたガリラヤの民衆、すなわち、たとえ話の本来の聞き手たちに何を語ろうとしたのかを考えることも大切です。本日はこの視点で、タラントのたとえ話を読み直したいと思います。(劉雯竹)