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2022.8.14 「熱情の神」(全文)  出エジプト記20:1-6

先ほど読んでいただいた聖書の中に、「わたしは主、あなたの神。私は熱情の神である」と言われています。口語訳では、「ねたむ神」という翻訳でした。「ねたむこと」は通常良くないことであると考えられています。人の美貌を羨んだり、頭の良さや財産などに嫉妬したりすることは人間を卑屈にするからです。まあ、そこで新共同訳は「熱情の神」と翻訳しています。しかし「ねたみ」(ジェラシーと「熱情」)(パッション)はコインの表と裏のようなものです。情熱あるいは熱情と妬みはテレビドラマや小説の重要なテーマの一つです。

                                                                                                       

1.聖書における「熱情」「妬み」

聖書においても「ねたみ」は人間の暗い感情であると考えられています。箴言27:4には「憤りは残忍、怒りは洪水。ねたみの前には誰が耐ええようか」とあります。そこで私たちは、「ヘブライ語(旧約)聖書の神はねたむ神、怒りの、審きの神」であり、新約聖書の神は「愛の神、赦しの神である」と簡単に結論してしまいます。それはそれで正しい面もないわけではありませんが、「ねたむ神」という表現は実はもっと含蓄が深いのです。英語ではa jealous Godで「ジェラシー」ですね。

 そこで、聖書が語る「ねたみ」について更に、考えてみましょう。聖書が語るねたみとは「熱情」の裏側なのです。そこで、新共同訳ではこの箇所を「熱情の神」と翻訳しています。「ねたみ」を表す「カーナー」というヘブライ語は「赤くなる」ことを意味しています。ある人の言葉や態度に影響されて顔が赤くなることから、「ねたむこと」を意味します。神が顔を赤くされるということは、余りに擬人的で少々滑稽ですが、泣いたり、怒ったり、笑ったり、喜んだりすること自体悪いことではありません。むしろ、忙しかったり、疲れたり、ストレスが溜まると人は無表情、無感覚になり、喜怒哀楽を表さなくなるのです。アブラハム・ヘシェルというユダや人哲学者はイスラエルの神は「パトス=情熱の神」であると強調しています。「熱情」も「情熱」も「熱心」もまあ同じ意味でしょう。

「情熱の神」と対照的な神がギリシヤの「アパシー=無感動」の神です。かつて四無主義という言葉が流行しました。無気力、無関心、無責任の三無主義に「無感動」を加えて当時の若者たちの特徴を嘆いたものでした。まあ、人間「最近の若い者は」というようになると歳をとった証拠かも知れません。無感動というのはギリシヤ哲学や仏教思想では、人間にとって大切な姿勢であるのです。「冷静」であるということです。人や物事に関心を持ちすぎ、情熱を持って関わろうとすると人は裏切られ、傷つくのです。愛するということは厄介なことであり、傷を受けることです。ですから人間や環境に右往左往されない「冷静沈着さ」「不動心」こそ理想であるというのです。いわゆる「悟り」ですね。人に何か期待し、要求すると絶望したり、慌てたり、羨んだりするのでしょうか。これに対し、ヘシェルは、ヘブライ語(旧約)聖書の神は熱情の神であり、神は人間と関わり、そこで人間が悩み、苦しんでいれば、共に悩み、苦しむお方であると言います。情熱を意味する「パッション」は受難のキリストのお姿を引くまでもなく、「苦難」「苦悩」をも意味するのです。イザヤ9:7では「万軍の主の熱意(カーナート)がこれを成し遂げる」と言われ、26:11では「自分の民を救くおうとする(神)の熱情(キーナート)」が語られています。新約聖書のヨハネ2:17によれば、私たちの主イエスは「情熱の人」として描かれており(詩編69:10の引用、「キーナート」)、主イエスの父なる神を慕い、人を愛する愛の深さが十字架の死に追いやったというのです。こうして聖書の神は人間の悲しみ喜びと共感する(compassion)神であり、共に苦しんで下さる熱情の神であり、「ねたみ」とはこの熱情の裏側、熱情を保証するものなのです。

 

.「偶像」の禁止

 さて、この「熱情の神=ねたむ神」は十戒の第二戒の文脈に登場してくるのですが、この第二戒は偶像礼拝あるいは神を「かたち」で表現することを禁止しています。旧約聖書には主なる神が、金の子牛の像にされて、礼拝されたことが描かれています。エジプトの奴隷の地からイスラエルを解放した神が、カナーンの五穀豊穣の神バアルと混同されてしまったわけです。牛は牧畜業や農業に従事する人々にとっては大切な財産でした。ミルクを出してくれるし、子どもを産んでくれるし、田畑を耕すにも無くてならないものです。日本社会においても、牛、馬、狐、蛇、犬などが神の使いとされています。それらの動物は人間にとって有益であるか、あるいは賢さの象徴です。そしてそのようなもので神を表すうちに、どこか豊かさや、生産手段や、知恵そのものが神になってしまうのです。そして、偶像礼拝には、生ける神を、便利さとか、自分の都合の良さとか、自分のかたち、自分の枠組みに押し込めて、人間が神様を自らの手の中に納め、支配してしまうという動機が潜んでいるのです。つまり、天地創造の神ではなく、被造物にぬかずき、神ご自身ではなく、神からいただくものを崇めるという動機が含まれているのです。そして被造物をあがめ、その結果それらに隷属する人間は、神の似像である人間の人間性そのものを失うことになるのです。

 ここで注目すべきことが言われています。イスラエルをエジプトの奴隷の地から解放された神は、私たちが、パロの抑圧から解放された人間として、奴隷の地エジプトから脱出して、自由人として生き続けることに熱烈な関心を持ち給う神であるということです。私たちが諸々の偶像と力に囚われ、からめとられ、偽りの神々に心を寄せるときに、決して私たちを見離すのではなく、「ここに私がいるではないか」と私たちに迫られるのです。4節は新共同訳には正確には翻訳されていませんが、「あなたは自分のために」偶像を礼拝するはずがないと言われています。わたしたちには自分のためには、神ご自身がいますのであり、このお方をないがしろにして偶像にうつつを抜かす人間に、「だめだ」と情熱をもって関わられ、私たちが心を寄せる空しいものに向かって「ねたみ」を持たれ、あるいはそのような人間に対して「嫉妬される神」としてご自身を現されるのです。「だめだ」とねたみをもって関わってくださる神こそ真実の神です。神は無関心な冷たいお方ではありえないのです。

 

3.愛の保証としての「妬み」

話しを少し具体的な事例で進めてみましょう。ある時、手首に傷のある女性が教会にやってきました。その人のお姉さんが連れてきたのです。いまからブラジルに帰るのですが、妹が心配なので初対面の私に預けていくというのです。その妹さんはなかなか子どもが生まれないという引け目があり、夫に自由に浮気をして良いと言ったそうです。しかし、自分以外の女性の所に通う夫、一人残された自分が余りに惨めで、やりきれなくなり、リストカットしたそうです。私は驚いて、「夫を愛しているなら、なぜ浮気をしてはだめと言わないんだ」と言いました。ねたみのない愛情は本当の愛情ではないのではないでしょうか。私はすぐ彼女の夫を訪問して、話をしました。もはや彼女に対して愛情がないことを確認し、彼女のために家と基本財産を確保してあげて、離婚となりました。彼女はやがてバプテスマを受けて、クリスチャンになり、再婚しましたが、子どもも与えられ、幸せに暮らしています。不妊の原因は夫の方にあった訳です。「妬み」とは愛の保証を意味する正当な感情なのです。了見が狭いなどというのは都合の良い「言い草」です。神と私との関係の問題に戻りましょう。主なる神は、神が愛する人間が欲望に囚われ、偶像にひれ伏し、自己破壊していくのを見られて、「ここに私がいるではないか」とねたみを起こされる熱情の神であるとは何と素晴らしいことでしょうか。新約聖書ヤコブの手紙4:5には、「それとも神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに(pros phthonon epipothei)愛しておられる」とありますが、神は、悩み、苦しんでいる皆さんの人格、そこに宿す聖霊をねたむほどに大切に、情熱をもって愛しておられるのです。

 

4.切ってくださるものと受け継ぐもの

 み言葉の最後の箇所に目を移してみましょう。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみ(hesed)を与える。」何と恵みに満ちた言葉でしょうか。皆様の中には父親や母親から受けた傷がトラウマとなって疼き、自分がまた今度は自分の子どもに同じような傷を与えてしまうことを恐れている方はないでしょうか?この連鎖は永遠に続くかのように思えてくるのです。仏教では「カルマ」とか「業」ともいう重たい宿命です。

しかし、神の前で犯された律法違反としての罪の結果、その「因果」は宿命のような重さではなく、三四代で終わりにして下さるというのです。神はねたむほどにあなたを、そして、あなたの子らを愛して下さるからです。私たちは、良いことは長く続かないことを経験します。そして災いを先取りしてしまうことがあります。もうそろそろ何か悪いことが起こりそうだ。子どもが病気になるとか妻が怪我をするとか、人間は運命から良いことも、悪いことも受け取らねばならないと考えます。私の妻が私の出張中に自転車で転んで大腿骨の付け根を骨折したことを知ったとき、「来た、来た」という感じでした。次男が妻を見舞おうと雨の東北道で車数台が絡む事故に遭遇したと電話があったときも、やはり、「そら来た」と妙に落ち着いていました。まあ、入院していた妻も、九死に一生を得た次男にとっても大変なことであったとは思いますが、人間は良いことも悪いことも受け留めて生きねばならない。祝福はそう長くは続かない。これが私たちの日常です。しかし、ねたむほどに私たちを愛する熱情の神は、神を信じ、神を愛し、神の戒めを守る人に、慈しみ・恵みを施し、私たちの想いと予測をはるかに超えて、幾千代に至らせると約束されているのです。私たちの兄弟姉妹の中には厳しい試練の中にある方々もいます。しかし、私たちの神は、神に従い得ない貧しい私たちの問題を三四代でカットして下さり、私たちのほんの僅かな、消えかかった信仰でも喜んでくださり、注がれた神のその慈しみ・恵みをいや増して下さる情熱の神なのです。私たちが失われてしまうことをねたむほど悲しみ、私たちを愛して下さる神なのです。そうであれば、神ならぬものを神とし、自分の「かたち」に閉じ込めて、被造物に過ぎないものや自分自身を礼拝したりする愚かさから自由になって生きようではありませんか!(松見俊)