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2022.8.21 「天が開かれた~救いの始まり~」(全文)  ルカによる福音書3:21-22

1:  弱さの中に来られたイエス

 今日の箇所は、イエス様がバプテスマを受けられた場面となります。今日の少し前、ルカの3章15節では、民衆がメシア・救い主を待ち望んでいたことが記されています。人々はメシアを待ち望んでいた。救いを求めていたのです。そしてバプテスマのヨハネより「悔い改め」のバプテスマを受けていたのでした。ここでは、この民衆と共に、イエス様がバプテスマを受けられたことが記されています。イエス様は、救いを求める民衆と共にバプテスマを受けられました。つまり、民衆と共に、救いを求める者となられたのです。

 救いを求めるということ。皆さんは今、何を求めているでしょうか。お金でしょうか。時間でしょうか。健康でしょうか。家族や友人といった人間関係でしょうか。私たちは、いったい何を求めて日々の生活をしているのでしょうか。この時、イスラエルの人々は、ローマ帝国の支配下にありました。そのような意味で、社会的な解放を求めていました。また、それだけではなく、そのような中にあって、自分たちの生きる意味、生きる喜びを求めていたとも言うことができるでしょう。聖書によく登場する、律法学者・ファリサイ派の人々は、その生きる意味を、律法から見出していこうとしていたのです。よく「神様というものは存在しない、それはただ、弱い人間が、その弱さから逃げ出すために、何か頼るものを求め、作り出されたものであり、神様に頼るものは、自分の力を信じられない弱い人なだけだ」と言われることがあります。しかし、本当のところを言えば、人間はだれもが「弱さ」「欠点」を持つ者なのではないでしょうか。私としては、それほどに自分の力を信じられる人がいるということは不思議でなりません。「神様を必要とする者、神様に頼る者」とは、むしろ「自分の弱さに気が付いた者」「自分は完全ではないことを受け入れた者」ということができるのではないかと思うのです。自分には弱さがある。完全に信頼できる者となることはできない。そのような中で、私たちは、「自分一人では生きてくことが出来ない弱い者だ・・・」と悲観するのではなく、自分は一人では生きてはいけないということから、「自分は助けられている、支えられ、生かされている」ということを受け入れていくことが、本当の意味での生きる喜びを得ること、救いに繋がるのではないかと思うのです。

以前「群衆」と「民衆」についてお話しましたが、民衆とは「救いを受ける用意のある民」「救いを求めている者」を意味します。そしてそれは自分の「弱さ」や「欠点」に目を向けた者、自分の弱さを受け入れた者ともいうことができるのです。イエス様は、この「弱さ」や「欠点」を持つ人間のところに来て下さいました。22節において、イエス様は、神様から【「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」】(ルカ3:22)と言われます。「神様の愛する御子イエス・キリスト」が、弱さを持つ人間と共にバプテスマを受けられたのです。イエス様は、その人間の弱さを共に担う者となられたのです。これがイエス様のバプテスマ。この時のイエス様の選ばれた道です。メシアであり、救い主である、イエス・キリストは、どこか遠くから私たちに救いの道を作られたのではなく、私たち人間と共に生きることで、その救いの道を開かれたのです。イエス様が共に生きてくださっているというところに、救いがあるのです。

 

2:  イエスの祈り

この民衆と共にバプテスマを受けられた時、21節では、イエス様が祈られたことが記されています。イエス様はバプテスマを受け、祈っておられたのです。イエス様の祈り。イエス様が人となり、この地上で生きられた日々、その一日一日が変えることのできない大切な日々となります。イエス様は毎日、「アッバ、父よ」と祈られていたでしょう。日々の祈り、日々、神様と向き合っていくことはとても大切なことです。そのうえで、このルカによる福音書では、一つの変換点となるところでの、イエス様の祈りが数多く記されています。この後、12弟子を選びだすとき(6:12)、また、弟子たちに自分が何者かと尋ねられ、ペトロが「神からのメシア」と告白するとき(9:18-20)、山上で姿が変わられるとき(9:28-29)、主の祈りを教える時(11:1)、ペトロの裏切りを予告し、それでもその信仰がなくならないためにとも祈られた(22:32)のです。また、イエス様が十字架で向かわれる前の、ルカの福音書ではオリーブ山となっている、ゲッセマネの祈りの時(22:41)、そして十字架の上で、人間の罪の赦しと、神様に委ねる最後の叫びとして(23:34,46)イエス様は祈られました。

今日の箇所に置いて、イエス様は、バプテスマを受け、天が開かれ、神様の御言葉が注がれる時、祈られました。それは、イエス様が、民衆と共に生きる者となられる時であり、弱さを持つ私たち人間と共に生きる道を選び取られる時です。イエス様は、大きな一つの決心の時として祈られたのです。イエス様は祈りのうちに、神様と向かい合い、その御心を求め、人間と共に生きる道を選び取っていかれたのです。私たちは、このイエス様の祈りのうちに支えられていることを覚えたい、私たちはイエス様の祈りのうちにいつも生かされているのです。

フィリピの信徒への手紙2:6-8では、このようにあります。【キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。】(フィリピ2:6-8)イエス様は、神の子でありながらも、どこまでもへりくだり、自分を無にして、人間となられた。しかもそのうえで、罪人である人間の代表者として、十字架の死の道を歩まれたのです。イエス様は、まさにどこまでも従順に生きられたのです。

この従順の道、へりくだり、神様の御心にどこまでも従う道を選び取っていくために、イエス様は祈られた。祈り続けられたのです。

 

3:  天が開けた

イエス様がバプテスマを受け、祈りの中にある、この時、天が開かれたのです。天とは、この時の理解としては、神様の支配される場所、神様の愛の御業が完成されているところを意味します。その天が開かれるということは、神様の愛による救いの御業の始まり、この地上における、神様の恵みの時の始まりを意味します。このあと、使徒言行録10章において、ペトロが異邦人を受け入れるための幻を見るときにも、「天が開かれた」(10:11)ことが記されています。使徒言行録では、天が開かれ、ここから、福音伝道の業がユダヤの民だけではなく、全世界へと広げられていくこととなっていくのです。まさに神様の救いの御業がユダヤ人だけでなく、そこから異邦人へ、そして全世界へと向けられていった時となるのです。神様はその時、天を開かれたのです。天が開かれた。まさに、神様の愛の注ぎの御業が、開かれたのです。

神様は、イエス様のバプテスマの時、天を開かれました。今、この時、私たちはイエス・キリストによって天が開かれたことを感じているでしょうか。それこそ、喜び、心から賛美して歩むことができているでしょうか。今、この社会は暗闇に満ちています。ウクライナにおける戦争は終わりの見えない状況にあり、新型コロナウイルスの感染拡大も収まることがありません。それだけではなく、世界各地での紛争は多くの場所で起こされ、環境破壊による気候変動、多くの災害が続いているのです。まさに困難の連続の日々です。このような社会に生きる中、喜び生きることの難しさを覚えるのです。聖書は、このような社会に、このように困難の中、絶望に陥ってしまう、私たちに、「天が開かれた」と教えます。それは、どうすることもできない不安という現実の中、それでもなお、そのような中にこそ、神様の憐れみ、救いの御手が差し伸べられることを教えられている。人間の業、人間の思いでは、もはやどうすることもない中に陥る中、そこで神様は天を開かれた。神様が働いてくださる。神様がその愛を注がれている。救いの道は開かれている。ここに希望があるのです。

 

4:  イエスの上に聖霊が降った

神様の救いの御業が始まった。天が開かれたのです。そこから、ここでは【聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。】(ルカ3:22)という出来事が起こされたのです。この聖霊の導きにより、イエス様は福音宣教の御業へと歩き出したのです。ここでは聖霊が「鳩のように」とありますが、この「鳩」という言葉は、一つの意味として、聖書ではイスラエルの象徴として使われており、ここではイエス様がイスラエルの代表する者として、聖霊を受けたことを表してもいるのです。聖霊は、イエス様を通して、イスラエルへ、そして全世界へと注がれるのです。

そして「鳩」という言葉には、もう一つの意味として、旧約聖書の「ノアの箱舟」から見ることができるように、苦しみの時の終わりと、新しい世界の始まりを表しているとされるのです。旧約聖書では、創世記6章から「ノアの箱舟」という物語が記されています。このノアの箱舟の話は、世界中に悪が満ちており、そのことを見た神様が心を痛めて、堕落したこの世界に、大雨を降らせて滅ぼそうとしたことから始まっていきます。ただその中でも、神様は、正しい者とされるノアに箱舟を造り、助かる道を教えられたのです。ノアは、この時、水のないところに船を作りだし、多くの人々に笑われました。それでもノアは神様の御言葉を信じて、箱舟を作ったのでした。その後、大雨が降り、ノアの家族、そして動物一つがいずつが箱舟に入り、それ以外のすべてのものが滅ぼされていったのでした。その後、40日後に雨がやみ、そこから、地上が乾き始めるのです。この時に、地上が乾いたかどうかをノアは、最初はカラスで調べ、その後、今度は鳩で調べたのです。そしてこの鳩によって、ノアは地上が乾いたことを確認したのです。このようなことから、「鳩」はすべてを飲み込んだ大雨の時が終わり、新しい地上が現れたことを表すものとされるのです。つまり、苦しみ、痛みの中から、新しく生きる命の始まりの象徴。困難からの救いの始まりとして、争いが終わり、平和の時が来ることの、象徴ともされているのです。

イエス様の上に「鳩」のような姿で聖霊が降った。それは、天が開かれたこと、この世の苦しみの時、争いの時の終わり、そして神様の愛の御業の始まりの時が来たことを示しているのです。この世界には、争いがあり、悲しみ、痛み、不安が、あります。今も、多くの場所において争いは続いています。そして、それは、私たちが、神様の愛を求めるのではない時、自分のためだけに生きる時、お互いを傷つけあうということが、起こってしまうことでもあるのではないでしょうか。それらは、神様の送られた聖霊をイエス・キリストが受けることによって、変えられていく。私たちが、イエス様の愛を求め、受けていくところに、争いは和解へと変えられていく。私たちはそのような神様の愛を注がれていることを覚えたいと思うのです。天は開かれた。まさに新しい命、新しい救い、新しい喜びの始まりが起こされているのです。

 

5:  「あなたはわたしの愛する子、私の心に適う者」

最後に、神様がイエス様に語られた言葉から見ていきたいと思います。この時、天から【「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」】(3:21)という声がありました。この言葉は、旧約聖書のイザヤ書42章1節の言葉と、詩編2編7節の言葉から引用された言葉とされています。

2:7 主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。」(詩編2:7)

42:1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。】(イザヤ42:1)

 

「心に適う者」。この言葉を直訳すると、「わたしはあなたを喜んだ」という言葉になります。神様は、イエス様を喜ばれた。喜びの関係、喜びの交わりが生まれたのです。イエス様は、すべての人間のため、その弱さを共に担うために、どこまでもへりくだられたのです。神様の愛の御業が起こされ、完成されていくために、まず、イエス・キリストが従順に歩み始められたのです。神様はこのイエス・キリストを喜ばれたのです。そして、この神様とイエス・キリストの愛の関係のなかに、わたしたちは入れられた、このイエス・キリストによって、私たちは「喜ばれた存在「神の心に適う者」とされているのです。私たちは、このイエス・キリストのへりくだりに、そしてそのことによる、救いの御業が起こされていったことに、目を向けたいと思います。イエス・キリストは、どこまでもへりくだり、祈り、励まし、私たちと神様とを繋いでくださっているのです。ここに救いが始まった。この時、天が開かれたのです。私たちは、どれほどの闇、困難にあっても、この神様の救いが始まっていること、神様の愛の支配である天が開かれたことを信じて、希望を持ち続けていきたいと思います。(笠井元)