1: 弱さの中に来られた
イエス様は、救いを求めていた民衆と共にバプテスマを受けられました。民衆とは「救いを受ける用意のある民」を意味します。それは自分の弱さを受け入れた者ともいうことができると思います。神様の愛する御子イエス・キリストが、弱さを持つ人間と共にバプテスマを受けられた。イエス様は人間の弱さの中に来られた。弱さを共に担う者となられたのです。これがイエス様のバプテスマです。イエス様が共に生きるというところに、救いがあるのです。
2: イエスの祈り
21節にはイエス様が祈られたことが記されています。イエス様はバプテスマを受け、祈っておられたのです。ルカによる福音書では一つの変換点となるところでイエス様の祈りが多く記されています。イエス様は、バプテスマを受け、天が開かれ、神様の御言葉が注がれる時祈られました。イエス様は神の子でありながらも、どこまでもへりくだり、自分を無にして人間となられました。従順の道、へりくだり、神様の御心にどこまでも従う道を選び取っていくために、イエス様は祈られたのです。
3: 天が開けた
天とは神様の愛の御業が完成されているところを意味します。天が開かれるということは、神様の愛による救いの御業の始まりを意味します。私たちはイエス・キリストによって天が開かれたことを感じているでしょうか。今、この社会は暗闇に満ちています。困難の連続の日々です。この社会に生きる中喜び生きることの難しさを覚えるのです。しかし、もはやどうすることもない中で、神様は天を開かれた。救いの道が開かれた。ここに希望があるのです。
4: イエスの上に聖霊が降った
「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた」とあります。旧約聖書の「ノアの箱舟」から見ることができるように、「鳩」はすべてを飲み込んだ大雨の時が終わり、新しい地上が現れたことを表すものとされます。困難からの救いの始まりとして、争いの終わり、平和の始まりの象徴ともされているのです。
5: 「あなたはわたしの愛する子、私の心に適う者」
「心に適う者」という言葉を直訳すると、「わたしはあなたを喜んだ」という言葉になります。神様は、イエス様を喜ばれたのです。イエス様は、すべての人間のため、その弱さを共に担うために、どこまでもへりくだられたのです。この神様とイエス・キリストの関係のなかに、私たちは入れられたのです。私たちは、どれほどの困難にあっても、天が開かれたこと、神様の救いが始まっていることを信じて、希望を持ち続けていきましょう。(笠井元)