1: 二つの系図
系図というものは、その人間がどのような血筋であるかを記しているものであり、系図に間違いがあったり、書き換えられてしまっていた場合には、その意味は失われてしまいます。
聖書におけるイエス様の系図は、マタイによる福音書とルカによる福音書に記されています。二つを見比べると、そこには多くの違いがあります。この二つの系図は、イエス様の血筋を正確に教えているのではないということです。この二つの系図は、イエス様が確かに救い主であることを教えるためのものなのです。
2: マタイの系図の意味
マタイによる福音書の系図では、イエス様はイスラエルの信仰の父アブラハムの子であり、イスラエルの一番繁栄したときの力ある王、ダビデ王の子であることを語るのです。イスラエルのメシア、救い主としてイエス様がこの世に生まれたことを表しています。イエス様は、イスラエルと神様の契約の成就としての救い主であることを教えているのです。そしてまた、神の子である、イエス・キリストが、人間として、イスラエルの民という一つの枠の中に来られ生きられた。イエス・キリストが、私たちと同じ限界のある人間という肉体をもった中で生きられたということを表しているのです。
3: ルカの系図の意味
ルカによる福音書ではイスラエルを超えた、世界の救い主としてのイエス様の系図があります。今日の箇所はイエス様から遡り、アダム、そして神様に至る系図となります。ルカによる福音書の系図の意図は、イエスという者は神様に繋がる方であり、世界の創造主である神様に至る方、その救いの道を開かれた方として来られたことを示しているのです。
4: 神様に至る道が開かれた
ここからイエスは宣教を始められました。イエス・キリストは、宣教を語る者として歩き始められたのです。それは、人間という限界の中で、罪人や病を持つ者のところにやってこられ、自ら痛みを持ちつつ、寄り添い、生きられた道でした。イエス様は、苦しむ者と共に苦しみ、悲しむ者と共に悲しみ、弱い者と共に歩むために弱い者となられたのです。このイエス・キリストによって、神様の愛に歩む道が整えられたのです。キリスト者となるということは、神様に愛されている者として、神様を愛し、隣人を愛する道を歩みだすことなのです。
5: とりなしの祈り
イエス・キリストは、私たちが神様に向かって生きるために祈ってくださっているのです。イエス様は、自らを裏切るペトロに「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言われました。イエス様は自分を裏切るペトロのために、ペトロの信仰、愛する心が無くならないために祈られたのです。私たちはイエス・キリストの祈りによって、神様へと至る道に導かれているのです。(笠井元)