1: 違いのある二つの系図
今日の箇所は小見出しに「イエスの系図」とあるように、イエス様の父親ヨセフから始まり、その先祖の名前がずらずらと記されているのです。突然ですが、皆さんは、毎日聖書を読んでいますか?私は、北海道で働いていた時から、この教会に就任しました10年前は、1日4章読んでいました。1日4章読みますとだいたい1年で聖書を読みきることができます。できましたら、1日4章とまではいかなくても、1日1章、または新共同訳は小見出しがありますので、1日小見出しで分けられている一区切りでも読まれることをお勧めしたいと思います。生活の日課として聖書を読もうと思い「さあ、これから読むぞ」と思うときに、皆さんはどこから読むでしょうか。それぞれ違うと思いますが、旧約聖書と新約聖書では、まず新約聖書から読む方が多いと思います。しかし、新約聖書の初めの、マタイによる福音書の最初にも、内容は違いますが、今日と同じような、イエス様の系図が記されているのです。時々ですが、聖書を読もうと思ったけれど、このマタイによる福音書のイエス様の系図を読んで、カタカナが意味もわからず並んでいることから、読むことを断念してしまったということを聞いたことがあります。その気持ちはわかりますが、ただ、このイエス様の系図というのは、とても重要な意味を持っているということを覚えていてほしいと思います。
本来、系図というものは、その人間がどのような血筋であるかを知るために記されたものであり、そこには正しさが必要であり、間違いがあったり、書き換えられてしまっていた場合には、血筋としての正しさという意味は失われてしまうのです。
聖書におけるイエス様の系図は、マタイによる福音書とルカによる福音書と、二つの福音書に記されています。ただ、この二つの系図の内容を見比べると、そこには多くの違いがあります。そのため、このイエス様の系図から、イエス様の血筋を読み取ることはできません。もし、この系図を記したマタイとルカ、そしてそのあと編集した人が、この系図からイエス様の血筋の正しさを読み取ってほしいと願っていたならば、このマタイによる福音書とルカによる福音書の系図に違いがないように、編集していったでしょう。つまり、マタイもルカも、この聖書を編集した人も、そのようにイエス様の血筋を表そうとして記したわけではないということだ、ということなのです。この二つの系図には違いがあります。このイエス様の系図は、イエス様の血筋を伝えるために記されたのではなく、この系図は、イエス様が、確かに私たちの救い主であることを伝えるために記された。この系図を読む者、私たちはここから、神様の愛、神様の救いを得るものであることを教えているのです。今日は、このイエス様の系図から、私たちに与えられている、神様の愛、神様の救いに歩む道が開かれたという事実を見ていきたいと思うのです。
2: マタイの系図の意味
この系図の違いを見ることで、マタイが伝えようとしていることと、ルカが伝えようとしている、その意図を見ることができます。マタイによる福音書の系図は、マタイの1章1節から【アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図】(マタイ1:1)という言葉で始まり、【アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である】(マタイ1:17)という言葉で終わるのです。ここでは、イエス様はイスラエルの民の信仰の父、アブラハムの子孫であり、イスラエルの一番繁栄したときの力ある王であるダビデ王の子孫であることを教えます。
アブラハムから始まるこの系図は、アブラハムと神様の契約の成就、イスラエルと神様との救いの契約の成就として、まさに、イスラエルのメシア、救い主としてイエス様がこの世に生まれたことが表されているのです。また、17節では【アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である】(マタイ1:17)とありますが・・・この十四という数字は、七という完全数の倍の数字であり、この完全数を二倍にした十四という数で、イスラエルの歴史を分けることから、イエス様が、イスラエルがその歴史の中で、待ち望んでいた救い主、キリスト・メシアであることを、記しているのです。この数字による意味ということに関していえば、今日のルカの福音書にある系図も同じように、数字からの意味を読み取ることができます。
ルカによる福音書では、マタイの系図より、若干多くの人数がでてきますが、ここでは全部で77人が出てきます。この数字も完全数の7が11組となっています。7という完全数から、この系図もまた、神様の御子の系図であることを表しているのです。
マタイによる福音書では、この系図から、イエス様が、イスラエルと神様の契約の成就を意味する、救い主であることを示し、同時に、またイスラエルの民の中に、生まれ、そしてその民の中で生きたイエス様として表しています。神の子である、イエス・キリストが、人間として、イスラエルの民という一つの枠の中に来られ、生きられた。イエス・キリスト救い主が、私たちと同じ、人間という肉体をもった、その限界をもった中で、生きられたということを表しているのです。
3: ルカの系図の意味 意図
このマタイの福音書の系図に対して、ルカによる福音書ではイスラエルという枠を超えた、世界の救い主として、イエス様の系図があるのです。マタイによる福音書はアブラハムからとして、歴史としては過去から語る系図となっています。それに対して今日の箇所は、逆にイエス様から遡り、父ヨセフから始まり、ダビデ、アブラハム、またノアなどを通して、最終的にアダム、そして神様に至る系図となるのです。このルカによる福音書の系図の意図は、イエス様は神様に繋がる方であり、このことから、世界の創造主である神様に至る方、その救いの道を開かれた方として来られたことを表しているのです。神様は、このイエス・キリストを通して、イスラエルの民だけではなく、すべての民に、神様へと繋がる道、神様に至る道を開かれたのです。そのために、ここでは【イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった。イエスはヨセフの子と思われていた。】(ルカ3:23)と、イエス様を「ヨセフの子」とするのではなく、「そのように思われていた」とするのです。これはイエス様はヨセフの子と限定するのではなく、最終的に神様へと至る方であることを表すために「そのように思われていた」とするのです。 これがルカによる福音書の表す系図の意味「すべての民に神様に至る道が開かれた」という意味なのです。
4: 神様に至る道が開かれた
今日の箇所は、イエス・キリストによって、すべての人に、神様への道が開かれていることを示しています。そして、ここでは【イエスが宣教を始められた】と教えます。イエス様が始められた宣教とは、これからルカによる福音書において記されていく、イエス・キリストが歩まれた道による救いの言葉、福音の出来事なのです。イエス・キリストは、このあと、宣教を語る者として歩まれました。そしてそれは、人間として、この世に来られ、その人間という限界の中で、罪人や病を持つ者のところにやってこられ、自ら痛みを持ちつつ、寄り添い、生きられたということです。まさに、イエス様は、苦しむ者と共に苦しみ、悲しむ者と共に悲しみ、弱い者と共に歩むために弱い者となられたのです。イエス様は、その道を歩み続けられる中、最後に、救いの御業として十字架の道を歩まれることとなったのでした。神の御子であるイエス・キリストが、人間となり、人間の罪を背負い、罪ある人間が、神様に従うための道を切り開かれていったのです。神様。それは愛です。私たちはこのイエス・キリストによって、神様の愛に歩む道が整えられたのです。
皆さんは、日々、どのような道を歩いているでしょうか。どのような道を歩くことを望んでいるでしょうか。先日の研修の時に、松見先生は、「日本人に宗教は何かというと、『何もありません』と言うことが多いため、『あなたの大切なものは何ですか』と聞くようにしている」と言われていました。皆さんは、何を大切に、生きているでしょうか。何を一番に求めて日々の生活を行っているでしょうか。今、自分が何を大切にして生きているのか、一度考えてみてください。私たちはすべての者が何かを大切にしています。自分にとって大切なものが、しっかりと感じることが出来ている時、人間は幸せにあるのではないでしょうか。それがいつまでもある、失われることはないということは、大きな希望となるでしょう。逆に、その大切なものが失われるときに、私たちは絶望に堕とされます。それこそ、生きる希望を失ってしまうのではないでしょうか。
皆さんは、何を大切にしているでしょうか。そしてそれは、何かを中心に生きているということとなります。そしてそれがその人の、宗教・神となっていると言うことができるのです。人間は誰もが、何かしら、心の中に大切なものをもっています。人によっては、それがお金や権力であることもあるでしょう。または自分の名誉かもしれません。または、家族や隣人が一番大切な人もいるでしょう。それが何なのか、それはそれぞれ違うと思います。その中で、キリスト者となるということは、イエス・キリストを心の中心に置き、一番大切なものとするということなのです。
キリスト者は絶望しない。それは神様は決して失われない。神様の愛が無くなることはないからです。どのような時も、神様は共にいてくださり、私たちを愛してくださっている。だから、神様の愛、イエス・キリストを中心に置いている時、私たちは絶望しないのです。
神様は、この世にイエス・キリストを送って下さいました。そして、私たちにこの神様に至る道を開いてくださったのです。私たちの救いの道、愛する道、愛される道が開かれたのです。私たちが、このイエス・キリストによって開かれた道を歩きだすということ、キリスト者となるということは、神様に愛されている者として、神様を愛し、隣人を愛する道を歩みだすことなのです。
5: とりなしの祈り
皆さんは今、何を一番大切なものとしているでしょうか。できるならば、この神様の愛を中心に置いて生きていきたいと思います。絶望することなく、希望に満たされて生きていきたいと思うのです。
しかしまた、わたしたち人間は弱い者です。それこそ神様を信じ、イエス様を受け入れ、キリストを一番にして生きていこうと思うことができたとしても、そのように生き続けるということ、ずっと信じ続けることが、なかなかできない者となるのです。神を愛し、隣人を愛するという道から離れてしまうことがある。これもまた人間であり、それは信仰の強いとか弱いということではなく、だれもがそのようになるのです。だからこそ、イエス・キリストは、神に至る方として、この世に来てくださり、私たちと共に生きる者となってくださいました。私たちが神様を大切にするという前に、神様が私たちを大切にし、私たちを愛してくださっているということを覚えたいと思います。そして、その愛のなかにあって、イエス・キリストは、私たちが神様に向かって生きるために、私たちのために祈ってくださっているのです。
先週にもお話いたしましたが、このルカによる福音書では、多くのイエス様の祈りが記されています。そしてルカでは、その祈りによる「とりなし主」としてのイエス様の姿を見ることができるのです。イエス様は、十字架の前、ペトロの裏切りを知らせるときにこのように言いました。ルカによる福音書22章となります。【「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」】(ルカ22:31-32)イエス様は、イエス様を裏切るペトロに「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言われた。イエス様は自分を裏切るペトロのために、そのペトロの信仰、つまり愛する心が無くならないために祈られたのです。これが、イエス・キリストの祈りです。イエス様は、私たちが信仰を失いそうなとき、私たち自身では、もはや信仰などないと思う中、それでも共に生きて、祈っていて下さるのです。
また十字架の上では【そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」】(ルカ23:34)と言われました。イエス様は自分を侮辱し、殺していく者たちのために、「彼らをお赦しください」と祈られました。私たちは、いつも神様を一番大切に生き続けるということは、なかなかできないものかもしれません。しかし、だからこそ、イエス様が私たちのために祈って下さっているということを覚えたいと思います。私たちの人生はイエス・キリストの祈り、イエス・キリストの導きによって、神様へと至る道に導かれているのです。私たちはこのイエス・キリストの祈り、その導きを信じていきたいと思います。そして、様々な道にそれながらも、一歩一歩、神様の愛をいただき、愛され、愛する者として歩んでいきたいと思います。(笠井元)