1: 生活のよりどころ
15章から「死者の復活」について語られていきます。今日は、その導入部分となります。
パウロは福音を「生活のよりどころ」とします。この言葉は、口語訳では【それによって立ってきた】(1)となっており、原語でも「立つ」という言葉が使われています。「あなたがたが立っている福音」となると、大きな枠での生きる指針として聞こえます。それに対して、新共同訳の「生活のよりどころ」という言葉は生活に密着した言葉に聞こえます。私たちは、どこに立ち、何を生活のよりどころとしているでしょうか。
2節でパウロは「この福音をしっかり覚えて、固く守っておれば、この福音によって救われる」と教えます。福音とは3節以降に記されている事柄で、キリストが罪のために死んだこと、三日目に復活したことです。恵みをしっかり覚えていなさいと教えます。判断基準として考えられるならば「イエス様であったらどうするだろうか」「イエス様の生き方はどうであったのか」「神を愛し、隣人を愛するためにはどうしたらよいのか」「自分のためではなく、弱い者にとってどうしたらよいか」ということを考えさせられるのです。
2: 神様が起こされた福音の出来事
「キリストがわたしたちの罪のために死んだこと」、「葬られたこと」「聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したこと」。この福音の出来事は、神様の主体的な救いの行為です。私たちの行為ではないのです。福音の出来事は、私たちが信じていようが、信じていなかろうが、揺らぐことのない神様のご自身の計画と決断の中で起こされた出来事なのです。
ルターは「死んで復活するというのは、私の行いではなく、自らこれをなさったキリストの行ないである」と言います。パウロは、この神様の御業を「生活のよりどころとしなさい」と教えます。福音を得ようとする時、私たちは「自分は信仰が弱い」とか「信仰が無くなってしまった」と心が揺らぎ、「もっと努力をしなければ・・・」と律法主義的な思いに囚われてしまうこともあります。
福音は神様が起こされた出来事です。福音に立つということは、自分にはどうすることもできない弱さがあること、生活の中で間違った生き方をしてしまうことを認めること、それでも、私たちを愛する神様がおられることを信じることです。
3: 受けたものを伝える
パウロは、キリストの死、葬られたこと、復活したということは、パウロが作ったお話ではなく、パウロ自身も伝えられ受けたものであり、そして伝えられてきた福音を自分も伝えているとするのです。この働きによって教会が造られ、今、私たちまで伝えられてきたのです。
ここでは2回「聖書に書いてあるとおり」(3,4)と言います。これは福音は、旧約聖書が証しする出来事、神様が世界の初めから計画され、成就された出来事であることを教えています。
私たちがするべきことは、まず伝えられている福音を聞くことです。教会での礼拝、教会学校での学び、祈祷会での祈りを通して、様々な人々の証しを通して、聖書の御言葉を通して、キリストの福音を聞くのです。ここから私たちの信仰が始まります。そして、この福音、喜びを伝えていくのです。
4: 死んで、葬られ、復活されたキリスト
私たち人間は必ず死を迎えます。これは誰もが逃れることのできない事実です。それが被造物である人間なのです。そして同じように、キリストも死なれたのです。キリストは、そこまで私たちと同じ者となって下さったのです。そして、このキリストが「復活された」のです。神様がキリストを死者の中から引き上げてくださった。ここにいずれ同じように、引き上げられる人間の希望を見るのです。
5: 復活のキリストに出会う
パウロは、8節において、復活のキリストが自分にも現れてくださったことを語ります。パウロはキリスト者を捕えるためにダマスコに向かっていました。その途中で、キリストに出会ったのです。わたしが「最後」と言います。これは、時間的に最後というよりも、その末席に自分が置かれたことを教えています。同じように、私たちも同じところに置かれていることを覚えたいと思います。
パウロは、イエス・キリストに出会うという恵みによって、変えられ、多くの実を結ぶ者とされていきました。私たちも、神の恵みを受けていきましょう。そして多くの実を結ぶ者と変えられていきたいと思うのです。(笠井元)