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2022.9.4 「神を神とする~御言葉を携えて~」(全文) ルカによる福音書4:1ー13

1:  誘惑される時

今日の箇所は、イエス様が、誘惑を受けられた場面となります。今日は、ここから、誘惑とはどのようなものなのか。また誘惑にどのように立ち向かっていけばよいのかということを、共に考えていきたいと思います。ルカによる福音書では、3章においてイエス様がバプテスマを受けられた記事があります。イエス様はバプテスマを受けられ、聖霊がイエス様に降り【「あなたはわたしの愛する子、私の心に適う者」】(ルカ3:22)という声を受け、神様との関係が表されたのです。そして今日の4章で、イエス様は聖霊に満たされてヨルダン川から帰ってきました。ここで、聖霊に満たされたイエス様が、霊によって「荒野」の中を引き回されるのです。

 荒野というのは、ただ荒れた草木のない場所というだけの意味ではありません。荒野とは、何も頼るものがない、虚無と絶望の場所。獣や盗賊がおり、危険と隣り合わせの場所。人間が持つ人間としての当然の保障を受けることができない場所とされます。イエス様は聖霊に満たされ、聖霊によって、虚無と絶望の地、何も頼るもののない、危険な場所である荒野を引き回されたのです。この「引き回された」という言葉は、このあと4章29節の人々がイエス様を殺そうと、山の崖まで連れて行ったという場面の「連れていく」と同じ言葉となります。この言葉は、自分の思いではなく、自分の意思とは無関係に連れていかれる意味の言葉となります。イエス様は、ここではイエス様の意思とは関係なく、霊によって荒野の中を引き回されたのです。私たちも、様々な誘惑や試みに出会います。試み、誘惑とは、私たちが意識的に、自分から出会いに行くものではなく、誘惑、試みとは、私たちの思いとは無関係にやってくる。私たちは、誘惑、試みに突然、予期しない中で、連れていかれるのです。

 

 ここで、イエス様は、霊に引き回され40日間、悪魔から誘惑を受けられ、その期間が終わり、空腹を覚えられたのでした。イエス様は、ここからさらに3つの誘惑を受けるのです。40日間の誘惑が終わった。本来ならここで誘惑に打ち勝った者、勝利者として喜びたいところです。しかし、そこから本当の誘惑がやってきたのです。このあと13節では、【悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた】(ルカ4:13)とありますが、ここで悪魔は一旦イエス様から離れます。この後の「時が来るまで」とは、イスカリオテのユダの裏切りの時とも言われています。同時に、この40日の後に、そこから本当の誘惑がやってきたように、誘惑者は、人間が一番誘惑に引き込まれそうな時をいつも狙っていることを教えてもいるのです。誘惑。それは、私たちの思いに関係なく、突然、しかも、私たちが一番、誘惑に陥りそうなときにやってくるのです。

 

2:  石をパンに変える誘惑

 ここから悪魔は言葉巧みにイエス様を誘惑します。まず最初に、悪魔は、【「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」】(ルカ4:3)とイエス様を誘います。空腹は、私たちの心を弱くします。旧約聖書の出エジプト記の16章においても、イスラエルの民が、空腹を覚える中、神様に不平を言う場面が記されています。【イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」】(出エジプト記16:3)イスラエルの人々は、エジプトで奴隷とされ、その苦しみにあえいでいた。それこそ人間としての尊厳、命の意味さえも失う状態にあったのです。神様は、そのイスラエルを憐れみ、エジプトから脱出させてくださった。つまり、人間として生きる意味、命の尊さを示されたのです。それなのに、イスラエルの民は、荒れ野を歩み、空腹を覚える中で、神様に「まだエジプトにいたほうがよかった」「神様は、自分たちを荒野で殺すつもりなのではないか」と、神様に不平不満を言い出したのです。

 このイスラエルの民と同じようにイエス様は空腹にありました。このようなイエス様に、悪魔は【「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」】(4:3)と誘惑するのです。石をパンに変えることは、神の子イエス・キリストにとってはできないことではないでしょう。悪魔の誘惑とは、できないことを無理してさせようと誘うのではなく、できることをするように誘うものなのです。できること、しかし、そのことによって、神様との関係が崩れてしまうこと。そのようなことを、悪魔は狙って誘惑するのです。このときイエス様が石をパンにすることは、人間であることから離れてしまうことになるのです。イエス様はこの世に人間の子として、神様に造られた被造物の一つとして来られたのです。

聖書ではこのように教えます。【空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。】(マタイ6:26)私たちは、神様によって造られた者なのです。同じように、イエス様も、命の創造主である神様の養いの内に生きる者となられたのです。私たちは「パンだけで生きるものではない」のです。私たちの命は、自分ではどうすることもできない。私たちの命は、創造主なる神様が養ってくださるものなのです。わたしたちは、このことを忘れ、まずパンを手に入れようとしてしまうことがあります。それこそ、このとき悪魔がイエス様を誘惑したのは、神様に命を頂き、生かされていることを忘れ、自分は自分の力で生きていると思わせるための誘惑でした。しかし、イエス様は、私たちがまず求めるべきことは、神の言葉、神様の愛だと教えているのです。私たちはこのことを覚えたいと思います。そして誘惑とは、このことを忘れさせ、「あなたの命はあなたのもの」「あなたが生きるのは、あなたの力による」と、神様など必要ないと誘いだそうとしているのです。このように神様を忘れさせること、そして自分で生きていけると思わせること。これが誘惑の一つなのです。

 

3:  権力と繁栄を得る誘惑

 続けて悪魔は、イエス様に「自分を拝むなら、すべての権力と繁栄をあなたに与えよう」と誘惑しました。ここで悪魔は「神様ではないものを拝む」ことへと誘惑するのです。この誘惑に対して、イエス様は【「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」】(ルカ4:8)と答えました。私たちが生きるこの世界は、まさにこの「神様を拝み、神様に仕える」ということができないようにされる世界、「神様ではないものを拝む」ように誘惑の世界となります。イスラエルの民は出エジプトの時、神様を忘れ、金の子牛を神としたのです。この世界は神ではない様々なものを神として拝んでいます。「権力と繁栄」。それは人間にとって魅力的なものであり、人間が欲するものでしょう。現在も、人間は、この「権力と繁栄」を求め争っているのです。

 ウクライナでの戦争は未だ終わりが見えない中にありますが・・・この中で、日本は武器を捨てることを語るのではなく、これまで以上に軍事力を備えようとしているのです。それこそ、「力」を求め、「力」を必要とし、「力」に仕える者となっているのです。悪魔はこの人間を思いに付け込み、誘惑します。神を忘れ、自分で生きる人間になるように。そのような人間の求める権力と繁栄を与えると。それは、自分を中心とした、自分のための権力と繁栄、自分で生きるための強さを求めるように誘惑するのです。

それに対して、神様の栄光。それは、自らが人間のために死を選び、十字架の上で辱められ、まさに社会の底辺において死なれた姿にあります。そこに神様は、自らの愛を示されたのです。私たちが拝む神様。それは、誰よりも小さく、弱い者となられた方、イエス・キリストです。私たちは、ただこのイエス・キリストを拝むこと、心の中心に置くことで、神様の愛を知るのです。 これが神様の示された、神を神とする道、神様の愛の道なのです。

 

4:  神を神とする

 最後に、悪魔はイエス様をエルサレムに連れていき、その神殿の端に立たせて、「神の子ならここから飛び降りてみたらどうだ」「もし、あなたが神の子なら、天使が助けてくださるだろう」と誘惑します。この誘惑に対して、イエスは、【『あなたの神である主を試してはならない』】(ルカ4:12)と対抗しました。悪魔の誘惑。それは、少しわかりにくいのですが、「主を試す」行為、それは一言で言えば、「神を神としない」行為なのです。この悪魔の誘惑は、人間が神様の上にたち、人間が主導権をもって、神様を試すということ。つまり、神様の上に人間がいる状態、「神を神とせず、自分を神としている」状態なのです。

創世記3章において、アダムとエバが誘惑に陥り、神様の言葉から離れていってしまったという場面があります。この時、エバを誘惑する蛇はこのように言ったのです【蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」】(創世記3:4-5)「神のようになれる」。蛇はこのように誘惑したのでした。「自分が神を従える者となれる」これが悪魔の誘惑でした。

それに対してイエス様は【『あなたの神である主を試してはならない』】(ルカ4:12)とし、神を神とすることを語ったのです。

 

5:  御言葉を携えて歩む

 この悪魔の誘惑は、神を神とせず、神の僕ではなく悪魔の僕となることを求めていたのです。これが悪魔の決定的な目的です。この悪魔のささやきは、私たちが求める富や地位、名誉を用いて、私たちが神様に成り代わろうとするように、誘い続けているのです。このような誘惑に対して、イエス・キリストは「聖書の御言葉」を用いて悪魔の誘惑に対して立ち向かったのです。ただ、このとき悪魔も「神様の言葉」を用いて誘惑してきたのです。両者のいったい何が違っていたのでしょうか。それは、その目的、両者の目的が、全く違っていたと言うことができます。悪魔は、イエス様を誘惑するために御言葉を用い、自分の都合のため、自分を立てあげるために御言葉を利用したのです。それに対し、イエス・キリストの用いられた御言葉は『人はパンだけで生きるものではない』(3)、『あなたの神である主を拝み、ただ神に仕えよ』(8)、『あなたの神である主を試みてはならない』(12)という御言葉でありました。これらはすべて、神様を中心とした御言葉なのです。それは、神様を神様とすることのみを目的とした御言葉の聞き方、イエス・キリストは誘惑のとき、ただ神様を中心とすることに集中したのでありました。悪魔の最大の誘惑は、イエス・キリストを神様のもとから切り離し、自分の支配下に置く誘惑でした。言いかえると、イエス・キリストの十字架による贖いの道を妨げること、イエス様が十字架の道から外れることだったのです。食べ物やこの世の権威・栄華による誘惑や、また神の奇跡を示せという誘惑は、イエス・キリストの十字架の贖いによる救いではなく、他の方法による救いの道があるのだという誘惑であったともいうことができるでしょう。「十字架以外にも救いがあるのだ。この世の食糧の問題の解決だって、この世の権威や栄華による解決だって、いや、それよりも神様の奇跡を現せば、人はみんな信じるだろう」と悪魔はささやくのです。それに対して、イエス様は神中心の御言葉だけを語ります。それは十字架以外に救いの道はないのだ、と語っておられるのです。

 

 

私たちはそのイエス・キリストのなされた贖いのわざ、十字架の道を信じて、神様を中心とした信仰生活を送ることによって、あらゆる悪魔の誘惑に立ち向かっていきたいと思うのです。イエス・キリストは十字架の道を歩まれることによって、あらゆる誘惑に勝利され、その道を完成され、私たち人間への愛を完成されたのです。それがイエス・キリストの死、十字架の出来事です。神が人となり、私たち人間のために死に、私たちを受け入れ、私たちと共に生きる道を開かれたのです。だからこそ、私たちはただそのお方を信じていきたい。ただ、イエス・キリストにすべてを委ねていきたい。自分の力で生きるのではなく、神様によって生かされているという道を歩んでいきたいと思います。そのためにも、私たちは、み言葉にいつも向き合い、心のうちに、神様の御言葉を蓄えていきたいと思うのです。誘惑は、いつも、私たちを誘惑することを狙っているのです。だからこそ、私たちは、ただ、イエス・キリストに委ね、そのために御言葉を日々受け取っていきたいと思うのです。イエス・キリストは、神様を中心とした御言葉をもって、誘惑の中でも神様に従い続けたのです。私たちも、神様の御言葉をいただき、その御言葉を携えて、日々歩んでいきたいと思います。(笠井元)