1: 誘惑される時
イエス様は霊によって荒野の中を引き回されました。「引き回された」という言葉は、自分の意思とは無関係に連れていかれる意味の言葉です。私たちは自分の思いとは無関係に、突然、予期しない中で誘惑へと連れていかれるのです。イエス様は、霊に引き回され40日間、悪魔から誘惑を受けられたのです。そしてここからさらに3つの誘惑を受けるのです。40日間の誘惑を退けられた時はある意味一番誘惑に陥りそうな時でもあります。誘惑は、私たちの思いに関係なく、突然、しかも一番私たちが誘惑に陥りそうなときにやってくるのです。
2: 石をパンに変える誘惑
悪魔は「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」とイエス様を誘います。石をパンに変えることは、神の子イエス様にとってはできないことではないのです。悪魔は、できないことではなく、できること、しかし、そのことによって、神様との関係が崩れてしまうことを狙って誘惑するのです。
3: 権力と繁栄を得る誘惑
悪魔は「神様ではないものを拝む」ことへと誘惑するのです。人間は権力と繁栄を欲しています。それは自分の力のみで生きるための強さとも言えます。私たちが拝む神様とは、誰よりも小さく、弱い者となられた方イエス・キリストです。私たちは、イエス・キリストを拝むことで神様の愛を知るのです。
4: 神を神とする
最後の誘惑に対してイエス様は「あなたの神である主を試してはならない」と対抗したのです。主を試す行為、それは一言で言えば、「神を神としない」行為です。人間が神様の上にたち、人間が主導権をもって神様を試すこと。つまり「神を神とせず、自分を神としている」状態なのです。
5: 御言葉を携えて歩む
悪魔の誘惑は、神を神とせず、神の僕ではなく悪魔の僕となることを求めていたのです。このような誘惑に対して、イエス様は御言葉を用いて悪魔の誘惑に立ち向かったのです。悪魔のイエス様への最大の誘惑はイエス様が十字架の道から外れること、他の方法による救いの道があるのだと思わせることです。それに対して、イエス様は神中心の御言葉だけを語った。十字架以外に救いの道はないのだと語られたのです。私たちは神様の御言葉を受け、御言葉を携えて歩んでいきたいと思います。(笠井元)