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2022.9.11 「貧しさを受け入れる時に与えられる豊かさ」(全文) ルカによる福音書4:14ー30

1:  貧しい人に告げ知らされる福音

今日の箇所はイエス様の故郷ナザレでの話となります。イエス様は、いつもの通り、安息日に会堂に入り、イザヤ書を朗読されました。【4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、 4:19 主の恵みの年を告げるためである。」】(ルカ4:18-19)これはイザヤ書61:1-2と58:6から引用された言葉となります。ここで、福音は「貧しい人に告げ知らされる」と語ります。ここでの貧しい人とは、続けてあるように、「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」とあり、主の霊が、そのような人々を解放し、自由にしてくださる。それが福音であると語ります。

神様の救いとは、どのようなものなのか。それはまさにここにあるように、貧しい人を豊かに、捕らわれている人を解放してくださる出来事なのです。このことをルカによる福音書6章ではこのようにも言います。【6:20 「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。 6:21 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」】(ルカ6:20-21)ここでは、「神の国は貧しい人々のものである」と教えます。ここでいう貧しいということ。それは、金銭的な問題だけを意味するのではなく、何かに捕らわれていること、または目の見えない・・・つまり自分がどこにいて、どこに進めばよいのかわからないこと、そして何かに圧迫され、自由を失ったことを意味しています。

私たちは、このイエス様の言葉を聞く時に、どのような立場で聞いているでしょうか。皆さんは、自分は貧しい者だと思っているでしょうか。それとも自分は富んでいる者だと思っているでしょうか。何かに捕らわれた者と感じているでしょうか。それとも自由な者でしょうか。人間は、誰もが何かに捕らわれています。それは時に、お金かもしれません。時に、人間関係かもしれません。時に、自分の生き方を見失ってしまい、どのように生きてよいかわからなくなってしまうことかもしれません。私たちは、いつも何かに捕らわれているのではないでしょうか。そしてその根源には、心の枯渇、何かを求めている心。孤独、寂しさ、葛藤という思いがあるのではないでしょうか。それは、つまり、私たちは、すべての者が愛を求め、寂しさのなかにあり、孤独に生きている。そして、その愛を求める思いに捕らわれている。それが私たち人間なのではないでしょうか。貧しさ。それは愛に飢え、枯渇している人、共に生きる人を求め、孤独という寂しさや悲しさに捕らわれ、自由を失っている人。それこそ貧しい人々を意味するのです。そして、ここではそのような者こそ、神の国を受ける。神の国を必要としている。必要であることを教えている。福音は、そのような者にこそ告げ知らされると教えているのです。

 

2:  貧しいことを拒否する

この時、ナザレの人々は、【「この人はヨセフの子ではないか」】(4:22)と言い、イエス様の言葉を受け入れませんでした。 この姿は、まさに、自分たちが貧しい者であることを拒否した者の姿です。

私たちは、自分の貧しさに気づいた時、つまり、心のどこかに、孤独といった、虚しさを感じている、そして愛を求めている。その貧しさを受け入れることができるでしょうか。自分の貧しさを、何かで満たし、様々なこの世のもので、心を埋め尽くしていく。私たちは、その心の虚しさや、苦しさをどうにか紛らわすために、心の中にいろいろなものを入れ込んでいるのです。虚しさや、孤独を紛らわすために、自分は一人ではないと、様々な関係を作ろうとするのです。

現代のSNSなどはまさにそのことを象徴しています。もちろん現代の科学技術の発展は人間の生活を豊かにもしているでしょう。SNSというものも、もちろん良い部分もたくさんあります。ただ、同時に、その使い方を間違ってしまうときに、それは大きな問題を起こしてしまうのです。それこそ、名前も知らない人とつながり、孤独を紛らわそうとする中で、大きな事件へと繋がってしまうことが起こっているのです。

 貧しさを受け入れること。それはこの自分の心の中に、何かが足りないことに気付いたこと。そして、その貧しさは、自分の力では、満たすことができないことに気付いたこと。そして、それは神様の福音、愛を必要とするということに気付いたことなのです。この貧しさを神様の愛で満たしていくこと。それこそ神様の福音、神の国を受け取っていくこと、心が豊かに満たされていくことになるのです。

貧しさを拒否すること、それは自分の心の中にある、その隙間にこの世のものを入れていくことから始まります。お金、権力、趣味、人間関係、なんでもです。何かで心を満たそうとする。様々なこの世のもので、心を埋め尽くしていく時、全く隙間のない時、そこにはいくら神様であっても、その中に愛を入れることはできないのです。どれほど神様が愛を注いでも、その心に入るところがないのです。それが、自分が貧しいことを拒否した者です。

 それに対して、貧しい者。貧しさを受け入れる者。それは、自分の心に隙間があることに気付いた者。そして、その心に神様の愛を受け取る者、心にイエス・キリストが入ってくることが必要だと感じている者です。私たちは、この自分の弱さ、自分の不完全さを受け入れたい。そして神様の注がれている愛を心に受け取っていきたいと思うのです。

 

3:  聖霊の導きによって

今日の箇所14節において、イエス様は「霊」の力に満ちてガリラヤに帰られました。貧しい者に告げられる福音。イエス様は、この福音を告げ知らせるために、霊の力に満たされ、聖霊に導かれ歩まれたのでした。これまで、イエス様は3章においてバプテスマを受けられた時に、聖霊を受けられました。また、4章1節からは、この聖霊を受けて荒れ野で引き回され、悪魔からの誘惑を受けられたのです。イエス様は、聖霊を受け、聖霊に導かれ、そして聖霊の力に満たされて歩みだされました。聖霊を受けること。それは、神様の御心を受けて生きることであり、神様との関係に生きることです。イエス様は、神様と向き合い、神様の御心を求め、神様との関係のうちに歩みだされたのです。このイエス様の歩まれた道は、最初にバプテスマを受け「神の子」とされながらも、そのあとに、誘惑にさらされる道となります。また、今日の箇所で言えば、福音の言葉を語ることによって、自分の住んでいた人々から拒否され、最終的に崖から突き落とされそうになったのです。まさに苦難への道です。イエス様はそれでも神の国の福音を宣べ伝えるために歩み続けられたのでした。

これが聖霊の導きです。それはこの世における喜びだけではなく、時に、苦しみや悲しみの時もあることを見るのです。そして、それこそ、イエス様の人生そのものでもありました。イエス様は神様に祈り、その御心を求めて生きられました。その人生にはもちろん喜びの時もあったでしょう。しかし、その神様の導きによる歩みは、貧しい者となる歩み、それは十字架の上での死へと向かっていった、それこそイエス・キリストご自身が貧しい者となられた歩みなのです。そして、そのイエス・キリストの歩みによって、私たち人間は、神様の愛で豊かにされたのです。聖霊は、まさにそのために、私たち人間の救いのために、私たち人間が、神様の愛で満たされるために、イエス様を導かれた。そして、これが神様の御心であったのです。

 

4:  今、救いは実現した。

 イエス様は、この聖書の言葉、イザヤ書の言葉は、【「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」】(ルカ4:21)と語ります。今日とは、昨日、今日といった中での今日ではなく、まさに今、この時を意味します。神の救いの出来事は、今、この時、実現したのです。私たちは、今、この時、イエス・キリストによる救いを見たいと思います。イエス・キリストは、この世界に来てくださいました。それは、貧しい人、捕らわれている人、生きる道を見失った者、抑圧されている人が、そのようなところから解放され、自由を得て生きることができるようになるために・・・イエス・キリスト自らが、この世界に来てくださり、まさに、聖霊に満たされ、聖霊の導きによって、貧しい者と共に歩み、貧しい者を豊にしてくださったのです。神様の救いはこのイエス・キリストによって、実現されました。そしてそれは、今ここでも起こされているのです。私たちが自分の貧しさを受け入れる、この時、私たちは豊かにされるのです。 

 このイエス・キリストの愛の業は、誰にも止めることはできないのです。この時、人々は、イエス様を崖まで連れていき、イエス様を殺そうとしました。しかし、イエス様はその間を通り抜けていかれたのです。人々がどれほどの力で、このイエス・キリストの業を閉じ込めようとしても、その業を閉じ込めることはできませんでした。聖霊の導きを、人間が止めることはできないのです。私たちは、時に、心を閉ざし、時に、神様を拒否してしまうこともあります。それでも、その壁を越えて、イエス・キリストは来てくださるのです。 

 

5:  神様の愛の完成を期待して

最後に、神様の約束の成就、約束を待ち望むことについて見ていきたいと思います。イエス様は、自らがなされる救いの出来事が、旧約聖書において約束されていることをイザヤ書から語られました。神様の救いは、神様とイスラエルの人々との間に結ばれた契約の成就の出来事でした。まさにイスラエルが待ち続けてきた救いの出来事が起こされたのです。このあと、イエス様は、十字架の上で死に、そして復活され、神様の救いの出来事を起こされていきます。それは、まさに十字架の上で、貧しい者となられたイエス・キリストが、その復活によって、神様の愛に満たされ、富んだ者となられたということが起こされたということでもあります。その後、イエス様は天に昇り、弟子たちに聖霊を送って下さったのです。

イエス様は復活された後、弟子たちにこのように言われたのです。【「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」】(使徒言行録1:4-5)この言葉を受けた弟子たちは、イエス様のこの言葉を信じ、従い、共に集まり、祈り続けた。待ち続けたのです。そして、イエス様は、そこに聖霊が注がれたのです。これがペンテコステの出来事、神様の御霊が注がれた出来事なのです。このペンテコステの出来事は、イエス様と弟子たちとの約束のうちになされたのです。

今、私たちもまた、神様の約束を期待していきたいと思うのです。イエス様は、天に昇られ、聖霊を送られました。そしてまた、ご自身が来られること、いわゆる「再臨」について語られました。

ルカ21:25-28【21:25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。21:26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。21:27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。21:28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」】(ルカ21:25-28

再臨。それはイエス・キリストが再び来られる時。そしてそれは神の愛の支配がこの世に訪れる時です。この世において生きる私たちは、この神様の愛の完成を待ち望み歩んでいるのです。私たちは、今、この世界を見るときに、絶望に陥ることがあります。どうして神様はこのように苦しい日々を与えるのか、神様の愛はどこにあるのかと思うかもしれません。そのような時に、私たちは、今この時にも、イエス・キリストが共にいてくださり、神様の愛を現す者として生きることが期待されていることを覚えたい。そして神様の愛の完成の時がいずれ来られることを待ち望み続けていたいと思います。神様は、必ずその約束を守ってくださる。必ず実現してくださるのです。私たちは、このことを期待し、希望をもって歩み続けましょう。(笠井元)