1: 70周年を迎えて
本日は敬老感謝礼拝となります。敬老感謝礼拝を迎えるにあたり、私は、皆さんがどのような思いでバプテスマを受けられたのだろうと思い、もう一度バプテスマを受けられた時の信仰告白を読み返してみました。また転会されたため、バプテスマの時ではない方も多数おられますが、その転会の証しを読ませていただきました。皆さんのバプテスマを受けられた時の思い、そのときの環境、または転会された方のこれまでの人生、この教会に転会されるときの思いなどを感じることができました。
今年度、バプテスト東福岡教会は70周年を迎えます。この教会が敬老の対象になるには、あと5年が必要です。そう考えると、5年後、この教会がどのような教会となっているのか、考えさせられました。そして、私は、この次の70年後、140周年の時はどのようになっているのか・・・とも考えてみました。皆さんは、この教会が70年後どのようになっているのか、想像してみてください。一体どのような教会になっているでしょうか。7という数字は聖書では完全数とされ、ただ長さを表すだけではなく、とても長く、人間の思いを超えたような長さを表すときにも使われます。それこそ、ペトロが、イエス様に【「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」】(マタイ18:21)と尋ねたとき、イエス様は【「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」】(マタイ18:22)と答えられました。これは実際に七の七十倍、つまり490回まで赦しなさいと言っているのではなく、どこまでも、何度でも、という意味で使われています。私たちは、この教会の将来をどのように想像することができるでしょうか。
また、そのように考える中で、この教会が創立した70年前に、教会の人々がどのように考えていたのか・・・と考えさせられるのです。この会堂は70年前から変わらずあります。70年前に建築したときに、このことを期待していたでしょう。また幼稚園も当時からありましたので幼稚園と教会が協力して福音伝道、そして教育を行っていくことも期待していたでしょう。また、現在は、第7波として、新型コロナウイルスの感染が拡大し、礼拝をオンラインで配信しています。礼拝を教会以外の場所で、同時に行うことができるようになると、誰が想像していたでしょうか。この教会は、どのような期待をもって創立されたのでしょうか。この70周年を迎えるこの年に、考えてみたいと思うのです。
バプテスト東福岡教会は、70年の間、右往左往しながら、多くの人々が関わり、ここに立ち続けてきました。あまり具体的には言いませんが、多くの、良いこともあれば、悲しいこと、苦しいこともたくさんあったと聞いています。それでも、この教会は、ここに立ち続けてきたのです。多くの方の努力があったでしょう。また様々な人々がお互いのために祈り、働き、多くの人々によって、ここに立ち続けてきたのです。私たちは、その多くの人々の信仰と祈り、そして奉仕によって立ち続けた、この教会に今、立たせていただいているということを忘れないでいたいと思うのです。そのうえで、この教会が70年間ここにあること、立ち続けたことは、何よりも神様の御心があったことを想うのです。神様の御心として、神様の御業がなされるため、ここに、この教会、バプテスト東福岡教会は、立ち続けてきました。そして、それこそが、ここに教会が立ち続けている意味なのです。
皆さんは、これからの時、70年後、700年後、または、7日後、70日後、7年後と、この教会がどのようになっているのかを想像することができるでしょうか。神様の偉大な御業によって、これまでここに立ち続けた教会が、これからどのようになっているのか。それは、神様しか知りえないことです。私たちは、この神様の御業に期待したいと思うのです。私たちには見ることはできなくても、神様という変わることのない愛の方の働きに期待していきたいと思います。それこそ、これからも様々なハプニングや問題、喜びもあれば、悲しみの時もあるでしょう。それでも、この教会が、いつまでも、神様の御心に従い、働く教会として立ち続けることを夢見て、希望を持ち続けていきたいと願うのです。
2: 人間の成長
そして、それは、私たち自身に向けて、そして隣人に向けても同じように、神様の御業のうちに生かされていることを覚え、神様の働きに期待して生きていきたいと思うのです。先日調べてみたのですが、人間の成長と、老化の移り変わりは30代前後であり、もちろん脳も同じです。こう考えると、わたしは43才ですので、すでに老化が始まっています。確かに、私も、自分の体の衰えというものは感じます。先日、それこそ聖書を読んでいる時に、どうしてもよく字が見えないときがありました。寝不足かな・・・とも思ったのですが、その後、色々としてみると少し、遠くにすると見えるようになったのでした。佳子さんには老眼の始まりだと言われました。また、北海道にいたとき、小さい頃から続けていたサッカーを、いつかもう一度したいと夢にまでみてきて、この福岡で、フットサルとしてですが、行うことができたのですが、・・・そのフットサルも、さすがに体がついていかないことを感じ、先日引退しました。年齢を重ねることは決して悪いことではないと思います。若い時、年齢を重ねることにより、肉体的にも精神的にも成長し、できることも増えるのです。それは、良いことも、悪いこともです。
私は附属の幼稚園の園長でもありますが、以前保護者さんから、自分の子どもが嘘をつくようになったと言われたことがありました。ただ、子どもが嘘をつくということは、むしろ嘘をつくことができるようになったという大きな成長なのです。実は、嘘をつくことができるようになることは、大きな成長の一つなのです。人間は、どうして嘘をつくのでしょうか。一つには、本当のことを言うと、親から怒られる、または親が悲しむと、人の気持ちを考えるようになっているということができるのです。また、嘘をどのような、言葉で言えばいいのか。本当のことに似ていることが起こったことにするのか。全く違うことを言うのか。わかりにくいようにするためには、どうすればよいのか。いつまで嘘をつき続けるのか。このように、嘘をつくというのは、とても難しいことなのです。生まれたときから嘘を言うことが出来る人はまずいないでしょう。つまり大きな成長の現れなのです。ただ、ではこの成長が、良いことなのか、悪いことなのか。それを知らなくてはならなくなるのです。つまり、今度は善悪の判断を身に付けていく必要があるのです。そしてまた、思春期には、色々なことを学ぶ上で、何が本当に必要なことなのか、自分の生きている意味、アイデンティティの形成へと続きます。年齢を重ね、成長することは、とても楽しいことでしょう。
そこから、いつか、先ほどは30代前後としましたが、そのころから、成長はただの成長ではなく、肉体的には衰えが始まるのです。肉体的には衰えるときに、できないことが増えていくことがあります。「以前はこうだった・・・」「昔はこんなこともできた・・・」と思うことも多くなるかもしれません。ただ、私は、同じように、年齢を重ねることで、できることも増えていくと思うのです。ただがむしゃらに生きていたところから、少し離れて、自分を見つめることができるようにもなります。また、私にとって、大きく教えられたのは、自分が色々なことができなくなったことで、自分が他者に支えられていることを実感するようになりました。支えられている。隣人に愛されている。祈られていることを知るときに、とても感謝な気持ちをいただくのです。
3: 神様の計画の内に生かされている
このように年齢を重ねる私たち人間ですが・・・では、私たち自身、これからどうなるか、皆さんは自分が年を重ねていくことをどのように思っておられるでしょうか。現在は、新型コロナウイルスの感染が拡大し、これからどのようになっていくのかを考えると不安が募ります。また、最近は「持続可能な開発目標」として「SDGs」とよく言われるようになりましたが、世界のこれからのことを考えると、環境問題、エネルギー資源の問題などは、大きな問題としてのしかかってくるのです。それだけではありません。私たちは、自分の未来をどのように見ることができているでしょうか。自分の1年後、7年後、70年後・・・自分はどのようになっていると想像するのでしょうか。そこには希望よりも不安が募ってしまうのではないでしょうか。しかし、だからこそ、先ほども言いましたが、私たちの未来は神様の働きによって造り上げられていくということをしっかりと覚えたいのです。私たちは神様に造られた者です。私たちは一日、一秒でも神様の御心をなくして生きることはできないのです。私たちは、神様の働きに期待し、神様の働きに希望を持ちたいと思うのです。主は私たちを造り、そして養ってくださっているのです。
そしてまた、わたしたちはいずれ神様の御許に戻る時が来るのです。これもまた、神様の御心のうちになされる御業なのです。私たちは神様から命を頂き、そして養われ、そしてその命を生きて、いずれお返しするのです。聖書のヨブ記で、ヨブはこのように言いました。ヨブ記1:21【「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」】(ヨブ1:21)
私たちは、神様の御計画のうちに、この世に生まれてきたのです。そして神様の御計画のうちに、命をお返しし、御許へと引き上げられるのです。これが私たちの人生です。この神様の御計画、神様の御業に期待したい。そして希望を持っていきたいと思うのです。わたしが以前いた教会では、「アルファ、オメガの会」として「夢を見る会」を持っていました。できること、できないことではなく、「夢を語り合う」会です。そこでは、ただ神様の御業に期待して、どんな教会になるのか、どんな教会にされていくのか、みんなで語り合うのでした。どんな自分になるのか、どのような教会になるのか、期待して、希望を持つのです。私たちは、神様に造られた者、被造物として、新しく自分を造り上げてくださる方、創造者である神様に期待し、希望をもっていきたい。それが、どれほど不安や困難の前であっても、苦しみや悲しみの中にあっても、主イエス・キリストが共にいてくださるという事実を信じて、希望をもっていきたいのです。
4: 神様の御業に期待して
聖書はこのように言います。
【だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。】(Ⅱコリント4:16-18)
私たちは、神様に造られた者です。神様は、この私たちを変わることなく、愛してくださっているのです。それは永遠に変わることがありません。そしてそれは同時に、日々新しくされているということもできるのです。私たちに同じ時間、同じ日というものは、二度とやってこないのです。その瞬間、瞬間を、わたしたちは生かされている。その一分一秒のすべてを受け入れ、包み込み、愛してくださる神様の愛。それは、日々新しくされ続けている愛、そしてどのような者をも包み込む、無限の愛なのです。 神様は、その愛の御業として、イエス・キリストを、私たちの内に送って下さいました。このイエス・キリストが私たちの、心のうちに生きておられるのです。それも変わることはないのです。私たちは、このイエス・キリストが自分の内にきてくださっているということ、また隣の人のうちに、イエス・キリストがおられるということを覚えたいと思います。私たちの命は、日々新たにされ、日々新たな愛で、生かされているのです。ここに、私たちの本当の生きる意味、生きる力が与えられるのです。私たちは、今も、そしてこれからも、多くの困難の壁に出会うでしょう。しかし、私たちの生きる意味は変わりません。私たちの内にきてくださったイエス・キリストを喜びましょう。そして、この与えられている命に期待して、希望をもって生きていきたいと思います。私たちの命を照らしてくださる神様の御業を信じて、共に夢を見て、共に祈り、共に仕え合い、生きていきたいと思うのです。(笠井元)