今日はバプテスト東福岡教会の召天者追悼記念礼拝です。ある人たちを「記念する」とはどういうことでしょうか? 「記念すること」(ヘブライ語ザーコル、ギリシャ語のアナムネーシス)は、聖書に証言された信仰にとって極めて大切な事柄です。私たちは、毎週主日礼拝に集いイエス・キリストのことを思い起し、記念しています。また、ヘブライ語(旧約)聖書でも「覚えること」「心に留めること」「記念すること」は極めて大切です。イスラエルの人々はまさに、歴史・世界における神の恵み・憐れみを記念する民でした。
皆さんはゲルギーのメーテルリンクという童話作家の『青い鳥』をご存知でしょう。貧しい樵の子チルチルとミチルという兄と妹の二人が「幸せの青い鳥」を探す旅に出るのです。まず、「思い出の国」に出かけます。そこにはすでに亡くなった懐かしいお爺さんとお婆さんがいました。お婆さんとお爺さんは、孫たちに「私たちを思い出して欲しい。私たちを思い出してくれるそのときだけ私たちは生きることができるのだ」というのです。この物語の一幕は真実の半分の面を語っています。私たちがすでに亡くなった、愛する者たちを思い出すその時、彼らは生き生きと私たちの中で息づくのです。しかし、一年に一度、妻、夫、父や母、我が子、兄弟、姉妹を思い出すときにのみ、彼ら・彼女らは生きるのでしょうか?そうではありません。「記念すること」を軸にして聖書の言葉を読んでみましょう。Iコリント15:54~58です。
1.人とは朽ちるべきものである(53~54節)
まず、私たちが記念し、記憶するべき第一のことは、人とは「朽ちるものである」ということです。創世記2章によると人は土の塵から造られ、主なる神より「いのちの息」を吹き込まれて「生きる魂」となったと言います。土から造られた人はやがて息を引き取られ、土に帰ります。新約聖書ヘブライ書9:27には「人間にはただ一度死ぬこと、その後に裁きを受けることが定まっている」と書かれています。また、創世記6:3で神は言われます「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから。こうして人の一生は百二十年となった。」4000年前からギネスブックではないですが、人の寿命の最長は120年であるという洞察があったのでしょう。もっと一般的には当時の信仰者は、「人生はため息のように消えうせます。人生の年月は七十年程度のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません」(詩編90:9-10)と嘆いています。確かに私たちが記憶しておくべきこと、記念すべきことは、人は朽ちるべきものであるという事実です。」「死を覚えよ」ということです。
2.「朽ちないものを着る」
しかし、これは最後の言葉ではありません。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着る」「この死ぬべきものが死なないものを着ることになる」という言葉が繰りかえされています。私たちが記念し、記憶すべきことの第二は、私たちは「朽ちないものを着る」ようになること、死なないものを着ることになる」という真実です。死はイエス・キリストの愛と憐れみと復活のいのちによって克服されてしまったという真実です。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(54節後半~55節)。今朝既に召された人たちを記念する時、自らもやがて死ぬ私たちが覚えておくことはこのことです。何かを脱いで裸になるというより、神の恵みと慈しみといのちの衣を私たちは着るのであり、すでに召された、愛する家族たちも単に死に飲み込まれたのではなく、神の恵みと慈しみといのちに飲み込まれているということです。これがキリスト教信仰の神髄です。皆さん、このことを信じますか?あるいは死が結局凡てを飲み込んでしまうと考えていますか?私は聖書の証言に従い、「死はキリストの愛に飲み込まれた」という事柄を信じます。「朽ちるべきものは朽ちないものを着る」ことになるのです。
3.棘を抜かれた死を死ぬこと
さて、ここで、記憶すべき第三のことに光を当ててみましょう。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。」とあるように、すでにイエス様の身元、つまり、「天に」召された皆さんの愛する者たちや私たちは棘を抜かれた死を死んだのであり、棘を抜かれた死を死ぬだけなのです。指などに棘が刺さるとごく小さなものでも痛いです。チクチクします。日本では「棘ぬき地蔵さん」があるくらい何とかしてよ!ということになります。昔母親が縫い針を蝋燭の火で滅菌消毒して、棘を抜いてくれたものです。もし、死に直面して厄介なことがあるとすれば、あの愛する者たちが必ずしも良いものばかりを持っていたわけではないこと、随分「わたしも苦しめられた」という記憶でしょうか?また、神の戒めを、律法を守ることなど出来ない私は、朽ちないものを着ることなどできるのかという心をチクチク刺してくる事実です。しかし、パウロは、人間の罪深さ、愛する家族が残したあの言葉、辛い態度を知りながらも、いや知っているからこそ、イエス・キリストの慈愛によって赦されていることを語っているのです。ですから記憶すべき第三のことは人間の罪深さにもかかわらず、イエス様の愛によって赦されていること、「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう」。という感謝と賛美こそ私たちにふさわしいことであるということです。
4.主の業に励むこと(58節)
最後に、いままで語りました三つのことを覚えて、私たちが応答すべきことに耳を傾けましょう。来年またここでお会いする時まで、あるいは来週の主日礼拝の時まで、時々お会いするときまで、いや、毎日祈りによって結ばれている者たちとして、58節の勧めに耳を傾けましょう。「愛する兄弟姉妹たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主イエス様の愛の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」もう一度朗読します。「愛する兄弟姉妹たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主イエス様の愛の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(松見俊)