1: キリストの復活を信じること
コリントの人々はキリストの復活を信じていました。そのうえで、死者の復活はないと考えていたのです。まず考えたいのは、私たちがキリストの復活を信じているかということです。キリストの復活は信仰の根本です。私たちはキリストの復活を信じているでしょうか。
【そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。】(Ⅰコリント15:14)【そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。】(Ⅰコリント15:17)
弟子たちは、復活のイエス・キリストに出会うことによって、死を恐れ逃げ出していた者から、新しく力を得て神様の愛を証しする者と変えられたのです。ここにイエス様の復活の力を見るのです。イエス様は十字架において死なれました。しかし復活することにより死に勝利されたのです。弟子たちは復活により希望を得たのです。また弟子たちは復活のキリストに出会う中で、これまでのイエス様の教え、行動をもう一度思い起こしたのです。
私たちはイエス・キリストの復活によって変えられて生きているでしょうか
2: イエス様の生き方に従う
ここでの問題は、キリストの復活ではなく、死んだキリスト者の復活の問題でした。新共同訳新約聖書注解では、「自分たちを既に完成した者、既に天的存在に近い者と考え、終末時の復活を不必要かつ不可能なことと主張していた」(『新共同訳新約聖書注解Ⅱ』p.115)とあります。つまり「自分は完成した」「もはや復活は必要ない」「復活は既に済んでしまった」と考えたということです。復活を必要としないという考えは、神様を必要としないことになり、それは仕えることを拒否する生き方に繋がります。
パウロはこのようなコリントの人々に対して、キリストの復活があったから、死者の復活はある。死者の復活がないとするならば、キリストの復活もないと説明するのです。この論理では、キリストの復活も死者の復活もないという考えに陥る可能性もあります。それでもパウロはこのように語りました。(Ⅰコリント15:13、15:16)キリストの復活のない宣教には希望がありません。また、キリストの復活がなければ、人間の生き方は変えられません。「隣人を愛する」という道につながらないのです。
3: 自分自身を神とする
コリントの教会の一部の人々は、「キリストの復活は信じるが、死者の復活は信じない」という考えに陥っていました。このような考えだと、18節、29節にもあるように、すでに召された者はどのようになるのかという問題が出てきます。それでも、コリントの人々がそのように考えていった理由には、今の自分の知恵、知識のすばらしさ、今の自分が完成された者であることを主張したかったと考えられるのです。
ここに人間の愚かさを見るのです。神様の業があり、それをいただく人間としてではなく、人間の考えに合わせて神の業を見ていくということが起こっている。つまり、神様の御業を受け取るのではなく、人間の考えに神様の御業をはめ込んでいくということが起こっている。極端に言えば、自分自身を神とする偶像礼拝と同じでしょう。
私たちもまた、自分の考えが先にあり、自分の考えに合わせて聖書を理解していくこと、自分の常識に合わせて神様の御言葉、御業の意味を変えていくことがあるのではないでしょうか。コリントの人々は、キリストの復活は信じていました。しかし、現在はキリストの復活も死者の復活も信じていないというところにあることがほとんどです。キリスト教でも、人間の頭で理解できるように考えることがあります。復活を人間の知識で考えるときに、それは合理化され、最終的にそれは無力化されていくものとなってしまうのです。復活は、神様が、イエス・キリストを通して、私たちに与えてくださった救いの出来事です。私たちは、このことを知識として理解するのではなく、信じる必要があるのです。
5: 復活を信じる希望
キリストの復活、死者のよみがえりを信じることは、この世では頭のおかしいことと思われることがあります。使徒言行録においてパウロがアテネにおいて、復活のことを語った時、人々に全く受け入れられませんでした。(使徒言行録17:32)
復活を信じること。それが信仰です。30節からの箇所では、パウロは、危険の中でもキリストを語り続けている意味、生きている意味を語ります。死人のよみがえりがなければ、信仰の生活は、虚しくなるだけではなく、生きている意味もなくなってしまうのです。そのような中で生きるならば、その生涯は、人間の欲望を満足させることでしか生きる意味を見いだせなくなるのです。私たちは、復活を信じるところに本当の生きる意味を得るのです。(笠井元)