1: アダムの現す人間の姿
コリントには、キリストの復活を信じていながらも、死者の復活を信じていない人々がいました。パウロは、【キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。】(Ⅰコリント15:20)と言いました。パウロは批判を込めて「すべての人間」ではなく、「眠りついた人たちの初穂」と言ったのです。パウロは死者の復活を強く語ります。
22節ではアダムとキリストについて語られます。アダムは一番最初に創造された人間という理解ではなく、人間の本質を現す者として理解できます。
アダム=人間とは、神様による被造物であり、塵から造られ塵に帰る者です。また、一人ではいることができない者、助け合う者を必要とする者。(創世記2:18)誘惑に打ち勝つことが出来ない者であり、神様から隠れてしまう者。それでも神様の愛、皮の衣を頂いた者なのです。
人間は神様による被造物であり、いずれ塵に帰るものながらも、創造主である神様を忘れ、自分を神として生きる者です。それでも神様は、このような人間=アダムを、イエス・キリストの十字架と復活によって神様との正しい関係に生きる者とされたのです。私たちもアダムでありながらも、ただ神様の一方的な恵みとして、救いを与えられているのです。
2: 既に与えられ、いずれ完成する神の支配
23節からは、復活の順序について教えます。パウロは復活の順序を語ることで、終末という、神様の支配の完成の時は「未だ」来ておらず、いずれ来るものであり、それでありながらも、「既に」その恵みに与っていくことができることを教えているのです。
私たちは、イエス・キリストが共にいてくださるということから、終末の先取りをし、神様との正しい関係、神様からの愛を頂く者として生かされています。
キリストは死を滅ぼされました。【だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。】(ローマ8:34)ローマの信徒への手紙では、私たちのためにキリスト・イエスは死んで、よみがえり、神の右に座し、そして今も私たちのためにとりなしてくださっていると教えます。
コリントの人々は、終末の先取りという考えを受け取る中で、いつの間にか「自分たちはすでに復活した」と考えるようになってしまった。そして「死者の復活は必要ない」としたのです。「既に」ということを受け取るなかで、「未だ」という希望を見ることを失ってしまった。そのため、神様の恵みを受けて生きるということから離れてしまったのでした。私たちは、神様の愛を頂いた者として、希望を持ち、どのように生きるか考えたいと思います。
3: 危険の中で
29節~コリントの教会では、バプテスマを受けずに召された者のために、その人の救いを願って代わりにバプテスマを受けていました。死を越えて死者のために人間が何かを行うことはできないと思います。むしろこのような行為は、人間が死に捕らわれてしまうことになっていくのではないでしょうか。神様の恵みを頂いた者として「委ねる」ということを覚えたいです。
32節~エフェソで野獣と戦ったということは、実際に起こったことではなく、それほどの困難、危険を冒していることを語っているのです。確かに、パウロの宣教の旅は危険と隣り合わせでした。(ローマ8:35-37)パウロは危険の中におかれながらも、救いを信じて、福音を宣べ伝えたのです。
ただ、2章に【そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。】(Ⅰコリント2:3)とあるように、パウロも宣教に疲れ、恐れや不安の中にあったこともありました。この時パウロはコリントの教会でアキラ、プリスキラ、ティティオ・ユスト、会堂長クリスポなどの助けを受けて、宣教の働きを行い続けたのです。(使徒言行録18:1-11)苦難の中で不安を持ちながらも、共に祈り、支え合い歩み続けることを教えられるのです。
4: 目を覚まして生きる 33節~
「正気になって」は口語訳では「目覚めて」となります。ここでは「目を覚まして生きていきなさい」と教えます。パウロは、キリストの復活を信じて、人間の復活を信じるように、目を覚まして、この信仰の基本に戻るように勧告します。私たちはすでに神様の愛を受け取りながらも、未だに弱い人間です。だからこそ、私たちは、目を覚まして生きるために、礼拝に集まり、祈祷会に集まり、共に聖書を読み、共に祈り続けていきましょう。