1: 復活の体
死者の復活は「どのように起こされるのか」「どのような体で来るか」ということについて語ります。マタイによる福音書でイエス様は「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(22:31)と教えました。「死者はどのように復活するのか」「どのような体で来るのか」。パウロは36節から答えます。(Ⅰコリント15:36-38)「死ななければ命を得ない」。この世において生きる体と、復活の命に生きるときの体には大きな断絶があり、復活の体がどのようなものであるのかは、神様の考えられるところであり、人間の考えを超えたところにあるのです。
2: 創造主なる神様の業
【神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。】(38)神様は御心のままに世界を創造されました。私たちは、神様の御心のままに命を与えられ、日々養われ、生かされているのです。神様の創造は無から有を造り出す業であり、神様の尽きることのない愛によるものです。同じように、神様の御心、神様の尽きることのない愛によって復活の体が創造されるのです。
私たちは、実際に、神様の御心、愛を実際に受けて生きています。そのような意味では、私たちが生きていること自体が復活の根拠ともなるのです。
本当は、私たちが今ここに生きていることは、私たちには説明不可能な、私たちの思いを超えた出来事です。そして自分がここに生きていることは、受け入れるしかない事実です。復活も同じです。しかし、コリントの人々は復活を受け入れることができなかった。それは、神様の存在を信じ、復活を信じる時、自分の生き方が変えられてしまうため、自分が生きていきたいように生きることができなくなるからではないでしょうか。
3: 輝きを持つ体
39節から人間の体、その他動物のことを「肉」と言います。これは、人間の汚れた存在として「体」があることを言っているのではありません。霊肉二元論、グノーシス主義では、人間の体は汚れたものとし、そのような体からの解放を「救い」としました。
ここでは、天上の体も、地上の体も輝いている。違いはありますが、神様の創造の業として輝いていることを教えます。私たちの体は神様が創造された体です。そのことを覚える時、日々の生活、生き方を変えられていくのではないでしょうか。私たちは肉体の状態の違い、病気、障がい、性別、年齢などあらゆることから偏見を持ち差別をしてしまいます。創世記では【神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。】(創世記1:27)とあるように、私たちは、神様に似せて、神様にかたどって創造された者です。私たちは神様の輝きを持って生きる者として造り出されているのです。
4: 断絶と連続性
42節から、現在の体は「朽ちるもの、卑しいもの、弱いもの」であり、復活し「輝かしいもの、力強いものになる」(Ⅰコリント15:42-43)ここには断絶を見るのです。44節では、この自然の命の体と霊の体には連続性があることも教えているのです。復活と現在とは、大きな断絶がありますが、どちらも同じ神様の創造の業なのです。
5: 最初のアダムと最後のアダム
神様は、塵で人を造り、その鼻に命の息を引き入れられました。【主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。】(創世記2:7)
私たちがこの世で生きる姿は、土からできた者としての姿です。イエス様は、天に属する者でありながらも、土からできた者となられた。そして土からできた者となりながら、復活という出来事を通して、天に属する者となられたのです。キリスト者は、イエス・キリストの復活により天に属する者の似姿とされたのです。私たちはこの世において土からできた者ですが、命の霊を受ける者となることが許されているのです。(笠井元)