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2022.10.30 「イエスを主と告白する」(全文) ルカによる福音書5:1-11

 

1:  全体の内容から理解する 

 只今読んでいただいた聖書箇所には、いくつかの出来事が記されています。まず、神様の言葉を聞こうとして、群衆が押し寄せてきた中で、イエス様が、シモンの船に乗り、語られたことがあります。そのあとに、群衆に話し終わったイエス様は、シモン・ペトロに「網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。ペトロがその言葉に従い網を降ろすと、網が破れそうなほどの魚を得たのです。そして、この奇跡の出来事から、シモン・ペトロの恐れと、イエス・キリストの招き、そしてイエス・キリストに従ったペトロたちの姿があるのです。私たちは、このような出来事が記されている中でも、まずイエス様によって、多くの魚を得たという奇跡の出来事に目を向けてしまうものではないでしょうか。幼稚園にも、このお話の紙芝居がありますが、その題名は「おさかながいっぱい」という題で、その内容のほとんどは、ペトロたちが漁をして、沢山の魚を得ていく内容となっています。私たちは、自分たちの常識や知識の理解を超えた、このような奇跡的出来事をどのように理解すればよいのか考えます。しかし、その答えはなかなかでてくるものではないかもしれません。そして、このような、奇跡的出来事が記された箇所は、その部分だけに目を向けてしまい、この箇所全体の内容の意味を理解することを忘れてしまうことがあるのです。イエス様の奇跡がすばらしいと、その奇跡にばかりに注目してしまい、私たちはその箇所の全体の内容の意味をしっかりと理解することから離れてしまうのです。

今日は、この箇所から、奇跡的出来事だけではなく、イエスの行われた様々な行為、そして語られた様々な言葉、そのことに注目し、見ていきたいと思います。

 

2:  厳しい現実

 今日の、箇所は、よく見ていくと、実はとても私たちに身近なものとして、そして、わかりやすいものとして、映し出されていくのです。このときイエス様は群衆にお話をするために、シモンとされるペトロに、船を出すように言いました。この時、ペトロたちは夜通し漁をしてきた後でした。しかも夜通し漁をしても、全く何もとれず、ペトロたちは、疲れきり、厳しい現実の中に立たされていたのです。どれだけ努力しても、ダメな時はダメ、その日の糧すら、危ぶまれる厳しい現実を前に直面していたのでした。また、それでも、どれだけ疲れていても、ペトロたちは、また次の日漁のため、網を洗い、次の漁ための準備を行っていたのでした。多くの魚がかかっても、破れることのないようにと、しっかりと、ペトロたちは、日々準備をしていたのです。このように、厳しい現実に直面することは、私たちにも多々あるのです。自分の能力や努力では、どれほど頑張っても、うまくいかない。そのようなことは、私たちの人生においては何度も繰り返されることなのではないでしょうか。

新型コロナウイルスの感染で言えば、感染が拡がらないようにと、社会全体で努力してきました。しかし、それでも感染者は減っては増えて、増えては減ってと繰り返されているのです。先日、幼稚園に届いた、国からの今後の対策についての資料では、この冬のピーク時には、1日45万人の人が新型コロナウイルスに感染するということでした。また、その資料では、同時にインフルエンザには1日30万人の人が感染するともありました。合計して1日で75万人の人が感染するという予想です。いつになったら収まるのか・・・多くの人の心が疲れてきています。

  それだけではありません。どれほど努力をしてもうまくいかないことは、沢山あるのです。受験や就職活動、または人間関係においてもそのようなことはあるのではないでしょうか。また、このようなことは、私たち一人ひとりの生活だけではなく、教会の中でもあるのです。先週は、特別伝道集会として、溝上先生を迎え、力強いメッセージをいただきました。このメッセージから、新たに主イエスによる愛の恵みを頂いたのです。本当に感謝な時間でした。ただ、どれだけ私たちが福音伝道の努力をしても、現在の現実を見るならば、日本のキリスト者は増えるよりも減るばかりです。努力が足りない、信仰が足りない、祈りが足りない、やり方が間違っていると言われることもあります。確かにそのような部分もあるかもしれません。もっと頭を使い、伝道方法を考え、努力をしなければならないという部分もあるかもしれません。しかし、どれだけ頭を使い、どれだけ、色々な手段を使ってみても、その努力がすぐに実りとなることはなかなかなく、疲れてしまうこと、厳しい現実の中に立たされることが、あるのではないでしょうか。

 

3:  福音を聞くために与えられた魚

 そのような努力をしても、うまくいかないという、現実に疲弊していたペトロ、そして私たちに、イエス様は「網を降ろし、漁をしなさい」と言われるのです。この御言葉は、プロの漁師であるペトロにとっては、自分の漁師としての知識や経験の上では、全く理解できないものだったでしょう。今、夜通し漁をしてきたばかりなのに・・・と思い、実際イエス様に【「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。」】(5:5)と言うのです。自分の常識を超えた言葉。このイエス様の言葉をどのように受け取るのか・・・それはペトロにとっては一つの決断の時であったとも言うことができるのです。自分の常識で生きるのか、それともイエス様の言葉に聞き従うのか・・・自分の考えを基準にするならば、イエス様の言葉は、全く無意味な言葉である。このイエス様の言葉をどのように受け取るのか・・・まさに決断のときでした。ここで、ペトロは、このイエス様の御言葉に、聞き従い、【「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。】(5:5)と答えたのでした。「常識的に考えれば理解できないし意味のないことです。しかし、あなたの言葉ですから、信じて従います。」とペトロは答えたのです。そして、ペトロは多くの魚を得ることになるのです。ペトロは、主イエスの御言葉に聞き従っていく決心をし、そして従っていく中で、多くの魚を与えられたのです。ペトロはこの多くの魚を得ることで、最も大切なもの、つまり神様のみ言葉、福音の言葉を受け取っていくことになるのです。

 

今日の箇所の、3節にあるように、イエス・キリストは、ペトロの舟に乗り、そこで、ずっと、語られていたのです。この時、一番近くで、イエス様の言葉、神のみ言葉を聞き続けていたのは群衆ではなく、ペトロなのです。しかし、夜通し漁を終えたばかりで、疲れ果てていたペトロにとっては、このイエス様の言葉は、まったく聞こえていなかったのでしょう。それよりも、ペトロにしてみれば、「今日は魚を獲ることが出来なかった…自分が食べるものをどうしよう…どうにかして欲しい…」そのような思いが強くあったのではないでしょうか。ここで、そのようなペトロに、多くの魚が与えられたのです。それは、まさに主イエスの御言葉に、耳を傾けるためのものとなりました。主の福音の訪れを聞くために多くの魚を得たとも言うことができるのです。ペトロは、イエス・キリストの御言葉を聞きながらも、現実の厳しさ、その疲れから、その御言葉を、福音として受け入れることができていなかったのです。そのようなペトロに多くの魚が与えられるということは、まさにペトロがその思い、疲れから解放され、イエス様の救いのみ言葉を、福音として聞いていく、そのために与えられた、多くの魚であったとも言うことができるのです。まさに、み言葉を聞くために、イエス様がペトロの心を整えてくださったのでした。

 

4:  福音を聞くための準備

ペトロたち漁師は、毎日、漁をしては、網を洗い、その網が壊れていないか、調べ、直し、準備をしていたのです。今日の2節でも【そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。】(5:2)とあるように、ペトロたちは、網を洗い、次の漁のための準備を行っていたのです。この網によって、ペトロたちは、多くの魚と共に、主イエス・キリストの御言葉を与えられたのです。ペトロたちは、今回の漁で、まったく魚を得ることができなかった後、それでもまた次の漁のための準備をしていた。しっかりと準備をし、いつでも漁に出掛けられるようにしていたのです。このペトロたちに、主の福音が与えられたのです。どれだけ疲れていても、準備をしていたペトロたちを見るときに、私たちも、そのように、日々の生活の中で、主イエスのみ言葉、救いの出来事を聞くための、その準備が必要だということを教えられるのです。

 

私たちにとっての、福音を聞く準備とは、一体何でしょうか。ペトロたちは漁師として、網を洗い、漁に出掛ける準備をしていました。では私たちは何をして、神様のみ言葉を待つことが出来るのでしょうか。もちろん、毎日、自分で聖書を読み、祈ることも、神様のみ言葉を受け取るための大切な準備となるでしょう。できれば、それぞれの生活の中で、毎日、聖書を読み、神様に祈っていきたいと思います。ただ、私たちはそれほど強い者ではありません。時に、聖書を読むことから離れ、祈ることができない時もあります。それこそ、どれほど努力をしても、自分の思いだけで、心を整えていくこと、神様のみ言葉に目を続けることはとても難しいのではないでしょうか。時に、心は疲弊し、疲れてしまうことがあるのです。そして、だからこそ、私たちは、弱さを持つ者として、自分の努力ではなく、まずイエス様に祈られていること、そして兄弟姉妹に祈られていることを覚えたいのです。

私たちがなすべき準備。それは、まさに、今日、このように教会に共に集まり礼拝をすること。共に、神様のみ言葉を聞き、共に祈ること。そして、祈られていることを知ること。と言うことができるのではないでしょうか。私たちの準備は、お互いのために祈り合うこと、そのために、共に集まり、礼拝の時、祈りの時を持つことだと言うことができるのです。私たちは、神様のみ言葉によって生かされています。私たちの生きる力、命の源に、神様のみ言葉があるのです。私たちは、神様のみ言葉を受け取るために、まず準備をしていきたいと思います。

 

5:  イエスを主とする

ペトロは、多くの魚を得た後、【「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。】(5:8)と言いました。ペトロは、ここで、イエス様を「主」と呼び、自分は「罪深い者」であると告白しました。ここでいう罪深い者。それは、イエスを主としていなかったこと、イエス様のみ言葉を聞いていながらも、日常の苦しみという現実の中で、心の中心に、イエス様を迎え入れていなかったことです。ペトロはこのとき、イエス様を自らの主と告白しました。これが、ペトロが頂いた最大の恵みです。ペトロはこの時、福音を自らの救いの出来事として受け入れたのです。ペトロが頂いた本当の恵み。それは、多くの魚ではなく、イエス様を主とする、神様の救いです。それは現実に起きている苦しみからの解放の出来事、もうどうすることもできないと思うほどに疲れて、生きる希望を失っていた自分に、もう一度生きる勇気と希望を与えられた出来事だったのです。このとき、起こされた奇跡。それは、ただ多くの魚が与えられたということではありません。そこからペトロの心が変えられたこと、心の中心にイエス・キリストが迎えいれられたことなのです。

そして、イエス様は【「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」】と言われました。その言葉を聞いたペトロたちは、いっさいを捨てて、イエス様に従ったのです。一切を捨ててとは・・・これまでペトロが生きるのに大切にしていた網のことです。これは、私たちに生きるすべとなるすべてのものを捨てなさいと言っているのではないのです。救われるためには、すべてを捨てなければならない・・・となると、これはカルト宗教の考え方です。この時ペトロたちは、心の中心にあった、様々なものを捨て、イエス・キリストを自らの主として、迎え入れたのです。

イエス様は【「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。】(マタイ4:4)と語られました。イエス様のみ言葉を聞く前のペトロにとって、一番大切なのは、自分が生きるためのパンであり、食べ物を得るための網であったと、言うことができるでしょう。これらを捨てるということは、心にイエス様を迎え入れたことを表しているのです。私たちも、このペトロたちのように、イエス・キリストを心に迎え入れていきたい、イエス・キリストを自らの主としていきたいと思うのです。

 

イエス様は、ペトロたちに、【「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」】と言われました。「人間をとる漁師」。それは、人を生け捕りにする者とされること、意味としては、人を危険から救い出すという意味となるのです。それこそペトロも、このイエス様に出会うまでは、漁に出ても何も得ることができず、この世に生きることに苦しみ、希望を失っていたのです。自分の生きている意味、生きている喜び、そして、生きている命の大切さを見失いかけていた。そこにイエス様が来て下さり、生きることは、食べることが中心ではなく、神様の愛に生きること、生かされていることを知り、そこから希望を得たのです。

この世はまさに、このペトロのように、暗闇の中、自分の生きる道を見失っている者ばかりです。それは私たち自身もではないでしょうか。そのような私たちに、イエス様は、「あなたは神様の愛によって生かされている」と希望を与えてくださる。そのように招いてくださり、そして今度は、あなたがたが、その希望を持って歩みだしなさいと教えて下さっているのです。この主イエスの希望の言葉、招きの中で、私たちは、主に信頼し、歩むことが赦され、その導きに応えていくことができるのです。そして、主イエスは、私たちが、その招きに応え歩むことを願い、今も私たちに御言葉を与えてくださっているのです。私たちは、この主に信頼し、その招きに応え、主の御言葉へと耳を傾けていきたいと思います。私たちの必要な物を、すべて、ご存知でおられ、その上で私たちを導いてくださる神様に、私たちは、信頼し、その御言葉に耳を傾け、そしてまた、その恵みを分かち合っていきたいと思います。(笠井元)